mixiユーザー(id:63255256)

2019年03月24日01:32

128 view

合戦考証34「何が手柄?」島原の乱

○二月二十七日に忠利が送った「九二一番」は城乗り報告でした。本文に「三ノ丸の塀をこちらで取り、ただちに内へ押し込みました。二ノ丸際までの押し詰めです」とありました。さらに追伸で「二ノ丸から鉄砲を撃ちおろしてくるので、楯と竹束で防備しています」の意味を、散文的な表現で書いていました。そのうえで、二伸には「このように書いているうちに、二ノ丸まで乗っ取りました」の記述です。この手紙を受けて、江戸へ行く途中で忠興の書いた返信をもう一度。

●忠興一五一五「3月6日」
「一つ、各軍の強臆、家中の者の結果、手負いのことなど、きっとやがて伝えてこられるのだろうと、これを待ちかねております」
「一つ、立飛州と話し合われて、三ノ丸を取られましたこと、このごろはこればかりが気がかりでしたところ、指揮もよかったがため、手間もかからず乗り込まれたとのことで、よくなさったことに大喜びです。立飛騨殿へも、御手柄ですから、手紙を出して伝えたいのですが、私も道中の困難、ほうほうの体で、それもできないので、よくよくお伝えくださいますように」
「一つ、城攻め(参戦)の衆は、誰もが江戸へ御参府なさるのでしょうか、教えていただきたいです。あとは、江戸からお伝えするでしょう」

○忠興は「すでに城が落ちた」の前提で、この返信を書いているとしか思えません。しかし原城が完全に落ちたのは二十八日です。ゆえに仮定として、二十七日付「城乗り報告」を受け取った時点で、忠興は「返信を書いた」としてみます。すると気になるのが第二文の「立飛州と話し合われて、三ノ丸を取られましたこと、このごろはこればかりが気がかりでしたところ、指揮もよかったがため、手間もかからず乗り込まれたとのことで、よくなさったことに大喜びです」の記述なんです。原文は「立飛州被申談、三ノ丸被取候由、此中是のみ気遣に存候処、被申付様能候故、手間も不入のりこまれ候由、神妙之儀と大慶存候」です。この文章を読む限り、忠興は「手放しで息子をほめている」わけですが、しかしそれは「三ノ丸を取ったこと」に対してなんですよね。忠利の二伸にある「二ノ丸まで乗っ取りました」には、まったく触れてないんです。どころか「三ノ丸を取ったこと」が「大慶」なのだし、忠利の「申し付けようがよかった」がゆえに「手間もなく三ノ丸に乗り込めたこと」が「神妙」だと言って、称賛しているんです。

○幕府の御定めは「その丸きり」でした。三ノ丸担当の細川と立花は、三ノ丸を取ることのみが任務だったわけです。しかも上様が「手負いを出すな」の御命令です。これは絶対と言えます。と、このように考えたなら、忠興は「仕寄経験者の立花飛騨守宗茂がいるのだし、彼に相談したうえで、うまくやったので、手間もなく、死傷者も数人しか出さず、忠利は無事に任務を果たした」という判断をした可能性。だからこそ「このごろは、こればかりが気がかりだった」という親心を吐露しているのではないでしょうか。つまり忠興は「二ノ丸を取った」の報告を、二ノ丸担当の手柄と見て、そこまで行ったなら「もう終わった」と判断した可能性。けれど「実際に二ノ丸を取った」のは細川です。忠利は当然そのつもりで、忠興の「この返信」を読むんです。忠利は、どう理解するでしょうね?

●忠利九二六「3月17日」
前文「三月六日の御手紙、八代から届きました。同月十七日に熊本にて頂戴致しました」
「一つ、二十七日の城乗りのようすは、前の手紙でだいたい申しあげました。ならびに、負傷と死者の記録も送っております。その後、負傷者たちのいくらかは絶命致しました」
「一つ、各軍の強臆は、手紙に書きがたいです。だいたいのようすは、肥後がお伝えすることでしょう」
「一つ、家中の者のことですが、かなり負傷しております。そのせいで、いまだに戦った者の詮索はできておりません。ただいま、そろそろ(ゆっくりと)命じています。配下を持たせた者たちも、急のことで、慌てて駆けつけたようすで、人数をまとめることさえも、やりようもなかったのです。なかなか、少しでも遅れてしまっては、後れ(を取)るだろうと思いましたがゆえ、私をはじめ、羽織のままで駆けつけたのです。手紙では事情をご理解いただけないでしょう。肥後がお伝えするでしょう。立孝も式部も油断のない働きで、満足致しております」
「一つ、立飛騨殿への御ことづて、お伝えしておきます」
「一つ、城攻めの衆のことですが、まず江戸へ下ることは無用だと、伊豆殿がおっしゃったので、そのように江戸の御老中へお知らせしました。伊豆殿、左門殿も天草の手があいて、三月十六日に行かれる予定だと伝えてきています。そこから名護屋銘浜を御覧になって、小倉へ行かれるのだと伝えてきています。(こちらは)変わりもありません」
追伸「なおなお、三ノ丸、二ノ丸、本丸まで、一気に入りましたため、小姓たちまで、だいたい十人の(うち)七〜八人は傷を負いました」

○忠興の「一五一五番」が届きまして、その返事がこれです。忠興が称賛してきたことに対して、温度差を感じませんか?「九二二番」詳細報告が、まだ父に届いてない時点での返信なので、忠利にとっての本当の手柄、すなわち「本丸一番乗り」も「大将首」も、父は評価してくれてないんです。だから忠利も「手放しで喜べない」状態みたいですね。この「理解のズレ」は、今後どうなるでしょうか。さらに、それとは別の「温度差」が、もう一つあるんですよ。忠興は「城攻めの衆は江戸に来るのだろう」と考えていましたが、上使の松平伊豆は「その必要はない」と、あっさりした返事なんです。この点はどうなんでしょうね?
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する