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2019年03月12日00:28

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合戦考証31「城乗り状況」島原の乱

○二十七日に開始された城乗り。前回に、その第一報「九二一番」を書きましたが、ほとんど状況のわからないものでした。よって「九二一番」を読んだだけでは、仕寄に効果があったのかどうかさえも不明です。しかし次は、詳細報告です。

●忠利九二二「3月1日」前文〜第五文
前文「わざわざ飛脚を出してお報せします」
「一つ、すでに江戸へ向かっておられますのでしょうか。使者を行かせて報せるべきなのですが、家中に負傷と死者が、目録で示すように出ております。そのうえ明日と明後日は、逃亡者がいないかと、山々を手分けして、山狩りをして、さらに城を石垣まで破砕する工事があるために、いまだに侍衆をとても必要としておりますので、このように(飛脚と)致しました」
「一つ、二月二十七日に手紙を送りました。届いていますことでしょう。あのときは騒がしい状態で、詳しくは書きませんでした。どう書こうかと、案ずる下書き用の紙もありませんでした。今から詳しくお伝えします」
「一つ、二十八日に城攻めと決定。二十七日は、鍋島の前の出丸があいて、奥へと(敵が)引っ込んだので、仕寄を付けさせるが、出丸などへ兵が入ったとしても、各軍は兵を出してはならないと(上使が)言い渡しました。そして鍋島が、御命令どおりに、敵のいない出丸に仕寄を付けようとして、楯などを使って寄ったところに、城からおびただしく鉄砲を撃ってくるうちに、鉄砲衆が楯の外へ出て、鉄砲の撃ち合いをするうちに、塀際へ少し寄りましたので、乗るのだと判断しまして、三ノ丸へ肥後が乗り込ませたのです。私は前記の話を、伊豆殿、左門殿と鍋島の出丸について相談致して、帰り道に聞きまして、具足を着ることもできずに駆けつけたのですが、肥後は先手組の見舞いに来ていましたので、このような次第となりました」
「一つ、立花左近殿から肥後のところへの使者は、鍋島軍は塀際に兵を寄せましたよ、どういうことなんでしょうと、肥後のところへ使者が来たのです。肥後の返事は、御使者もご覧のように、もう乗り込んでいるのだから、早々に御乗りなさいませと、返事をしたものですから、当家の兵は立花殿より早く入ったのです」
「一つ、二ノ丸へは、鍋島の兵が早くに入り、塀際から焼いていったため、奥へ兵を入れることができなくなったうちに、三ノ丸では撫で切りのため、二ノ丸が焼けないうちに通り抜け、本丸へ早くも着いたため、一番に乗り込みました。二ノ丸の入口と、本丸に乗り込みますときと、ここのしばらくのあいだで、負傷と死者が多く出ました。立孝と式部の兵も本丸へ着きました。帰国したうえで、いずれの状況も聞き届けようと、詳しい詮索はまだしておりません」

○まだ続きますが、ここまでが「城乗りの状況」です。いろいろ慌ただしい中で書いているせいか、だいぶ文章が散らかっていますね。とにかく「城は落ちた」ので、逃げた者を捜して山狩りをするとか、城を破壊する工事とか、事後の作業に忙殺されているようです。ただし「聞き捨てならないこと」が、第一文に書いてあります。「家中手負、死人、目録のごとくに御座候」です。そのせいで、事後の作業に投入する「侍」が足りないくらいで、使者も送れないというありさま。

○布陣の状況を簡単に繰り返します。原城は「凸」の字を平たくつぶしたようなかたちで、東西と南が「海に突き出している」んです。よって幕府軍は北側のみに布陣。最も西側で、本丸下に黒田軍。中央部の二ノ丸で、北へ出ている出丸の下に鍋島軍。最も東側で、三ノ丸下に細川軍。この三家が主力でして、そのあいだに少勢の各家がはさまります。細川の西隣で三ノ丸下にいたのが立花です。では、第三文の内容を時系列で整理しましょう。まず「城乗り開始」は二十八日を予定していたそうです。ところが二十七日に「城乗りが始まってしまった」わけですね。そもそもは、中央の出丸で敵が「内へつぼみ候」で、このチャンスに鍋島へ「仕寄を塀に付けよ」と命じたのが始まり。ただし上使は「たとえ出丸に兵が入っても、各軍は兵を出すな」と命じていたんです。原文は「出丸などへ人数入候とて、諸手人数出申間敷由御申渡候つる」です。この打合せのために、忠利は上使のところへ行っていました。細川軍のところでは、嫡男の肥後守光尚が前線見舞いに来ていました。そして「命令どおり」に鍋島軍が仕寄を寄せようとしたところ、途端に城から「射撃」です。原文は「城より稠敷鉄砲にて打申候」です。すると鍋島軍の鉄砲衆が、防御の楯の外に出て、城と烈しい鉄砲の撃ち合いを始めたんです。それで鍋島軍が、全体的に「塀へ寄った」のを見て、立花左近将監忠茂が光尚に使者をよこしました。「あれをどう見ますか」の質問に、光尚は「御使者もご覧のとおり、乗り込みですよ。貴家もお早くお乗りなさい」と答えると、自分でも三ノ丸へ乗り込みを始めちゃったわけですね。その状況を忠利は、打合せを終えて戻る途中で聞いて、鎧を着る間もなく前線へ駆けつけたほど。

○というわけで、光尚の勘違いで、光尚が始めちゃった城乗りだったわけなんですね。第五文に「二ノ丸へは、鍋島の兵が早くに入り」とありますが、でも「塀際から焼いていった」んです。原文だと「二ノ丸へは鍋島人数はやく入、塀ぎわより焼申候」です。これで鍋島軍は「二ノ丸の奥へ兵を入れることができなくなった」と忠利は書いています。けれど三ノ丸へ入った細川軍は「撫で切り」で一気に進むと、二ノ丸にも乗り込んでいたんです。二十七日付の第一報に「二ノ丸まで乗っ取りました」の二伸がありましたが、これは細川軍のことだったわけですね。さらに本丸へ一番乗りまでしています。ところが第五文には「二ノ丸の入口と、本丸に乗り込みますときと、ここのしばらくのあいだで、負傷と死者が多く出ました」とあって、原文は「二ノ丸之入口と本丸へのりこみ候時、暫之間に而、手負、死人多御座候」です。すなわち「仕寄で入った三ノ丸」では、敵を撫で切りにするほど圧倒して、自軍に被害は出なかったのに、その先で「仕寄なしの乗り込み」を二度もやって、そこで多大な被害を出していたわけですね?
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