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2019年03月03日23:37

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合戦考証29「原城が陥落」島原の乱

○二十一日に「敵の夜襲」の第一報を送り、二十二日に「忠興の返書」に返信を書き、二十三日には夜襲の詳細報告を書き送っている忠利。翌二十四日にまたも手紙を書いています。忠興から「別の手紙」が来たので、その返信です。

●忠利九二〇「2月24日」
前文「ちかぢか江戸へお下りになられるとのこと、松伊豆殿に(手紙を)送られるついでの御手紙を頂戴致しました。御体調も少し薬効がおありだとの話で、めでたいと思っております。だとしても、長い道のりが御大変なのは、言葉にならないほどだと思っております。肥後にも御手紙の内容を話して聞かせました」
「一つ、今月中には、必ず三ノ丸、鍋島の前の出丸、黒田の前の細い丸、御取らせになるだろうと思いますので、追って御吉報をお伝えするでしょう」
「一つ、江戸へ送りました絵図は、三斎様へも御目にかけるように言いまして、山路喜内にお届けさせました。きっと届いているでしょう。ただいまの陣取りまで書き記した絵図を作成してお届け致します。これを控えて置かれまして、こちらのようすを報告するとき、御理解いただけますように」
「一つ、二月二十一日の夜討ちで、城から出てきたとき、討ち取った首数、ならびに味方の手負い、死人の総目録をお届け致します。これは、上使に御確認いただいておりますので、少しも間違いはないはずです」
「一つ、私から曽又左へ送った手紙を御覧になられて、御理解も進まれたとのこと、納得というものでございます」
「一つ、伊豆殿へ(手紙を)送られるついでの、二月十四日の御手紙を、二十三日に頂戴致しておりましたが、二十一日の城中からの夜討ちで忙しく、事後状況の調査もあって、舟を出すことができませんで、遅く舟を出したので、(御出立の)あとへ使いが行くものと思います」
追伸「なおなお、江戸(屋敷)に色ビロードを持っております。見事なもののように感じましたので、十切れをお分け致します。こちらは、思っておられる以上にヒマもなく、昼夜、あちらこちらへ動いておりますので、少し時間があいてから、御見舞いの使者を送ります。こちらのようすも、またお伝えするでしょう」

○文中の「三斎様」とは忠興のこと。江戸へ行くことになったので、島原の「全権上使」松平伊豆守信綱にあいさつをするついで、忠利に「出発を報せる」手紙を送ってきたようですが、その手紙自体は残っておりません。忠利の返信を見ても、忠興の書いてきた具体的な内容は不明ですね。なお、京都に滞在していた忠興は、べつに「遊んでいた」わけではないんです。親戚の法事で京都へ出てきたあと、体調を崩して、長逗留になってしまっていたんです。健康も回復してきたのと、今年は「西国大名が在国の年」なので、江戸へ行くことにしたようです。細川家では、藩主の忠利が熊本にいるとき、隠居の忠興が交代で江戸にいるようにしているんです。忠利は前文で「永之道御大儀之程」と気遣っています。

○忠興が京都を出発したのは二月二十八日だそうです。そして江戸へ到着したのが三月十日です。第五文で忠利は「夜討ちの残務で忙しく、舟を出すのが遅くなったので、御出立のあとに使者が行くことになると思う」と書いていますが、この手紙を忠興が受け取ったのは、江戸に到着後の十六日でした。返信を書いていますけど、忠利の本文には簡単に触れるのみで、追伸にある「色ビロード」のことばかりを答えています。その理由は、手紙をご覧になれば、おわかりでしょう。

●忠興一五一六「3月16日」
「(江戸)参府について、見舞いとして竹内作兵衛をよこされ、二月二十四日のお手紙、今日十六日に届きまして、読みました。色ビロードを十切れいただき、満足しております。一段と見事です。とはいえ、私はこのようなものを他家への贈答品にしたことはないんで(使い途がないんで)すけどね、と笑っています。島原の絵図、夜討ちのときの首数、手負いと死人の目録も受け取りました。先日に山路喜内が持ってきました絵図も見ております」
追伸「なおなお、有馬の城が落ちた報告状も、すでにもう届いています。めでたいことで、筆舌に尽くしがたいです」

○すでに「有馬の陣」は終わったんです。忠利が二十四日に送った手紙よりも、その後の速報が先に届いているくらいです。今まで、仕寄の現況をこまごまと書いた「忠利の手紙」が何通もあって、読んできましたけども、それに対する「忠興の返書」があまり残っていないのは、おそらく「こういう理由」ですね。返信に何を書いたところで、届く前に「城が落ちた」となれば、意味もないじゃないですか。忠興は「一五一三番」二十三日付の中で「何を申し伝えましても、三百里(千二百キロメートル)を行き、また三百里を戻るのですから、ムダなことだと思いますけど」と書いていましたが、その手紙ですらも、結局「落城してから届いた」ことになるんですよ。ゆえに忠興は、たぶん「大した内容」を返信に書かなかったのだろうと思います。どうしても書かずにいられなかったことを除いては。そして忠利も慌ただしい戦場の中にいたのですから、父の言葉に「特に意味がある」と思った手紙のほかは、あえて保存しようと思わなかったのでしょう。

○さて。ここからは、島原と江戸で距離が開いてしまったので、往復書簡のタイムラグがますます大きくなります。ただし「戦後処理の問題」で、重要なこともあるんですよ。でもその前に、まずは「落城」の状況ですね。結果的に「どんな城乗りをした」のか、忠利が報告する手紙を見ていきましょう。
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