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2015年08月12日01:14

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芸術、複製、感動、アウラ

クリムトの画集をめくり、惹かれる絵に見入っているうち、ほとんど泣きそうになる瞬間が何度かあった。芸術作品による感動。絵を見ていて泣きそうになった経験は、ほとんど記憶にない。

その後、グスタフ・クリムト(1862〜1918)その人や作品の解説文の大半を読み、さらにめくっていると、ようやくあらためて気になるのが、作品の脇や下に小さな字で記された制作年や大きさ、所蔵者名である。

見ていくうちに、所蔵者が美術館などの公的機関でなく、「個人蔵」とだけ記されている作品がかなりあることに気づく。有名な作者の場合は誰の作品もそうだとはいえ、クリムトの場合、「接吻」こそウィーンのオーストリア絵画館の所蔵だが、「ダナエ」は個人蔵である。

つまり、この作品は、どこかの富豪か王侯貴族が、部屋に飾って毎日うっとり見ているのだ(それとも倉庫にしまいこんでいるのかもしれないが、それは許しがたい!)。

主な作品の実物を見るには、ヨーロッパ各国やアメリカ、カナダなどを歴訪しないといけないし、ヨーロッパだけでも、歴訪するのに必要な金も時間もない(展覧会が日本で開かれると、どちらも免除されるが)。

だがしかし、「感動」そのものは、今回の僕のように画集で複製を見るだけでもすることがある、つまり受け手が勝手にしてしまうことがある。感動とは、個人的な、一人一人の鑑賞者・受容者の中で起きる現象に過ぎないとも言える。

逆に、好きな作品や有名な作品の実物を見ても、感動するとは限らない。
例えば、僕は上野とルーブルで二回見た「モナリザ」に、ベンヤミンが複製芸術論で呼んだような「アウラ」を感じることはできなかった。また、厚い防弾ガラスで覆われたフェルメール「真珠の首飾りの少女」に対しても同様だった。

絵画作品の前に立って、作品の発する圧倒的な迫力を「アウラ」と呼んでよいなら、現在まで最も強く印象に残っているのは、マドリッドのプラド美術館で見たゴヤの「黒い絵」である。
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