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2022年02月19日16:38

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立川談志とその時代…

『談志の日記 1953 17歳の日記』。この本の中に何を見るか、ここから何を引きだすか? これは談志や落語を論じる人が、今後「立川談志とその時代」について論を展開するためには欠かせない資料になるだろう。さて今さして知識もない僕が、敢えて風呂敷を広げれば、立川談志は「戦中・戦後と衰退・停滞した落語を反転、再生させた人」に見える。その時代とは、この日記より少し後の「テレビ時代」だった。

――こうした立川談志像をめぐる大きな話を想起させる比較対象の人物は、「瀕死の上方落語再生の最大の功労者」だった桂米朝。さらに遡ると、幕末から明治にかけての三遊亭圓朝がいる。日本文学から見ると、圓朝の高座とその速記本は、明治半ばの「言文一致体」創出の際に参考にされたという以上に、日本文学に甚大な影響を与えたと、森まゆみ氏が強調していた。

さて、この1953年の元旦から12月30日までの(なぜか大晦日だけない)日記を読みながら気になったのは、「落語の稽古についてほとんど記述がない」ことだった。もちろん、師匠の柳家小さん(当時の談志は前座で「柳家小よし」)をはじめ先輩落語家たちにネタを教わり、稽古をつけてもらった箇所はあるが。家なり、近所の多摩川土手なりで「一人で稽古する」という記述は皆無だったと思う。ただ日記の後の「演目の記録」やその他の文を読むと、自分なりに納得できた。

談志は小学生の頃から伯父さんに連れられて寄席に通うようになり、中学時代には落語家を目指し、高校を一年で中退して小さんに弟子入りした。恐らく客として聞いていた入門前からかなりの数の話を覚えていたのだろう。ただ落語界には「自己流で覚えた話を人前で演じてはいけない」という不文律があり(恐らく今も)、師匠や先輩たちに一通り教わった上で披露したのだろう。

日記の内容の大半は、稽古以外のその他もろもろ。毎日の天候や体調、大田区の自宅から電車を乗り継いで上野、池袋、新宿などの寄席や落語会のようなイベントでの高座、師匠・先輩・同輩たちへの訪問と彼らの芸と人となりの寸評、年頃らしく女の子たちの話、幼馴染や元級友たちとの交友、どこかしら体調を悪くしての医者通い(留守のことがままある)、映画鑑賞と感想、食堂や鮨屋での食事、盆と年末年始の母親の実家(埼玉県深谷)滞在等々の日常が綴られるが、「学生に戻りたい」と懐かしむなど煩悶しながら、芯には「落語家になる」夢があった。

働く場所(寄席など)が東京か近郊とはいえ目まぐるしく変わり、いろいろな友達と会っているのに、どう連絡しているのかと思ったが、末尾近くに電話が出てきた。また、この年はNHKと日本テレビがようやくテレビ放送を開始したばかりで、テレビの話は全く出てこない。
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