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2020年01月12日01:33

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戦国史は君主制から違ってる

○歴史学者は「現代の民主主義」を理解しているんでしょうか?「日本国憲法」によって、国家の主権は「国民にある」となっています。主権在民です。主権者である国民は、国政選挙で「衆議院議員」を選出します。衆議院の第一党が「与党」となって、与党の党首が「国会で総理大臣に選出され」て、総理大臣が内閣を組織します。そうして「国家元首」となった総理大臣は、あとはもう「国家の執政を自分の好き勝手にやっていい」とか思っているんですかね、歴史学者は?

○総理大臣が「国政のトップとして執政権を持つ」にしても、国政について「主権者の承認を得る」必要があるんですよ。自分勝手になんでもできるわけではないんです。とはいえ、主権者の「国民」に、いちいち「国民投票」をしてもらって、承認を得るというのは、現実的にはできません。そこで「国会が代理で承認行為」をするんですね。これを「間接民主主義」と言います。学校で習ったはずですよ。本来の国会は「立法府」ですが、「行政府」である内閣の承認をする役割も務めます。スイスなどは「直接民主主義」が色濃く残っていますので、今でも毎年のように「国民投票」が行われていますけど、日本では、憲法改正ぐらいしか「国民投票」をする仕組みになっていません。国会が承認すればいいんです。

○君主主義の場合、主権者は「たった一人」の君主だけです。よって、君主が総理大臣を、自分一人で選んで、自分で任命すればいいんです。そのとき、執政権を得た総理大臣は、あとは好き勝手に、なんでもできるとでも?「主権者である君主」に「承認していただく」必要があるじゃないですか。民主主義なら「いちいち国民投票はできない」けども、君主主義なら「一人しかいない主権者に、説明して、承認してもらえばいい」わけですからね。これが君主主義の「基本」ですよ?「君主が自ら執政権を持つ」ケースもあるわけですが、そういう「特別な場合」を除き、通常において君主は「国政に承認を与える主権者」です。

○さて。「本能寺の変」を解読しようとするなら、見過ごすことのできない「重要な史料」があります。さかのぼること十二年前、永禄十三年(四月に改元があって元亀元年)に、信長が将軍義昭に「承認させた」とされる「五箇条の条書」です。条文の細かい解釈は、人によって違いますけども、この史料が「義昭の将軍としての実権を、信長が取り上げてしまった証拠」とする点では、解釈が一致。

●永禄十三年正月二十三日「信長の条書/日乗上人・明智十兵衛宛」
「一、諸国へ以御内書被仰出子細有之者、信長に被仰聞、書状を可添申事」
「一、御下知之儀、皆以有御棄破、其上被成御思案、可被相定事」
「一、奉対公儀、忠節之輩に雖被加御恩賞御褒美度候、領中等於無之は、信長分領之内を以ても、上意次第に可申付事」
「一、天下之儀、何様にも信長に被任置之上者、不寄誰々、不及得上意、分別次第可為成敗之事」
「一、天下御静謐之条、禁中之儀、毎事不可有御油断之事」

○英語では、主権を持つ国王をレグナントと言います。執政権を持つ大臣をリューテナントと言います。そして、国王が未成年であったり、病気で「承認行為」を行えない場合は、主権を預かる権限者が代行します。それをリージェントと言うんです。近世以降のヨーロッパ諸国では、国王の生母がリージェントになるのですが、中世ですと、前国王の弟や、王太后の兄などがリージェントになる例が多いです。日本の場合、平安時代の律令制度では、天皇がレグナントで、太政大臣がリューテナントです。天皇が幼少であるときのリージェントを摂政、成人しているときのリージェントを関白と言って、天皇の母の父(外祖父)が、その権限を持ちました。これが「摂関政治」です。のちに天皇の父の父(太上天皇)がリージェントの権限を持つようになったのが「院政」です。なお、院政の時代にも関白はいますが、一種の名誉職です。なぜなら、その時代の関白には「文書内覧の権限がない」と判明しているからですね。「文書内覧」とは「天皇に先んじて公文書を見る職権」のこと。これがないと、天皇より先に公文書を見ることができないので、「天皇の代行者として承認する」のは不可能となりますでしょ?

○では、正親町天皇を日本国のレグナント、将軍義昭をリージェント、信長をリューテナントと考えてみてくださいな。「条書の四」に「天下之儀、何様にも信長に被任置之上者」とあるのは、信長が「天下の儀を任され」て政治を行い、義昭がそれを承認する「上位者」だということ。要は「義昭が信長をリューテナントに任命してある」というだけの話じゃないですか。いったい、どこに問題があるんです?「信長を副将軍にする」と言ったのは、『言継卿記』によれば義昭のほうですからね。ちなみに「副将軍」は、平安時代の征夷大将軍の副官で、室町時代には「存在しない官職」ですが、義昭の希望を受けて、朝廷は信長を副将軍に任官しようとしたんです。信長は、さすがに辞退しましたが、執政権は引き受けていたわけですね。それを示す根拠史料が、この「条書」だってことでしょ?

○この史料も「真逆の理解」をしてるってわけ。君主制の基本もわからないのかな。なお、この解釈だと「将軍が飾りものにならない」代わり、天皇が「実権のない存在」になってしまいます。実のところ、この解釈は「律令制」にあてはめただけで、実際の「封建制」とは違うからです。封建制は、もっと複雑ですよ?
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