mixiユーザー(id:63255256)

2019年12月01日01:02

193 view

本当は重要な武田勝頼の手紙

○前回に見た武田勝頼の手紙「四月六日付」は、天正七年とされています。文章の中に「荒木村重が信長に敵対した」の情報があるからですね。『信長公記』の記述では、荒木の離反を「天正六年十月末ごろ」としていますし、翌七年の年末には、おおよそ制圧されているんです。よって、手紙の日付「四月六日」とは、六年四月だと始まってないし、八年四月だと終わっているので、七年しかありえないことになるわけです。年代特定の「わかりやすい」例と言えます。

○「足利義昭黒幕説」を主張なさる教授は、この手紙を「義昭が信長包囲網を成立させていた証拠」としていますが、内容を読んでみれば正反対で、毛利からの協力要請を「武田が拒絶したもの」です。現に武田勝頼は、天正七年以降に一度でも「織田の領域に攻撃を仕掛けた」でしょうか?「輝元二月五日出張」と文中にはありましたけど、毛利輝元は天正七年二月に「大坂方面へ出陣した」でしょうか?「史実」の行動と「一致する」のは、「協力の拒否」と読むほうでしょ?

○なお、この手紙が「原本」であるなら間違いなく「本物」ですが、たとえ「写し」であっても「本物」と言えそうです。その判断が可能となるほど「決定的なこと」が書かれているからですね。その点については脇に置くとして、ほかにも無視しえない「重要な記述」があるんです。武田勝頼が文中に「公儀御入洛」と書いていることです。もちろん「公儀」という言葉だけでは、必ずしも「将軍」を意味しませんが、そこに「御入洛」の言葉が付いたなら、毛利家で保護している「備後の義昭が京へ入ること」の意味である可能性が非常に高いわけですよ。なにしろ武田は「吉川が諫言して、輝元にやらせること」の一つとして「公儀御入洛」と書いているんですからね。この意味は「織田を京から追い出して、義昭様を京へお戻ししたあと、当然ながら織田の排撃を続けますよね。そのときは武田も無論、織田への攻撃に協力を致します」となりそうです。さらに言い換えれば、「復権なされた将軍様の御命令には従いますが、将軍様の御復権を手伝う気はありません。それは毛利でやってください」という意味になってきませんか?

○興味深いのは、近年でこそ「備後の義昭」の存在が注目されていますけど、かつては「誰も気にしてなかった」ことです。「天下取り史観」一辺倒の解釈だったころには、天下統一を進める信長と、天下を狙う毛利の争いであって、義昭なんぞは「とっくに敗けて、消えた敵キャラ」みたいなもんでした。ところが「武田勝頼の吉川宛」を書いた人物(それが勝頼本人であれ、偽造作者であれ)は、荒木が信長と敵対している時期に、毛利家に「公儀」があって、それが「入洛する件」を「毛利のなすべきこと」と書いているんですよ。この「公儀」が義昭ならば、義昭が「毛利家にいること」を、手紙の筆者(または偽造者)は知っていたし、義昭の復権が「毛利の大義名分の一つ」であることも、知っていたことになるんです。信長包囲網が「あったかどうか」の話より、はるかに重要でしょ?

○さて、話を「明智光秀の土橋宛」に戻しましょう。武田と違って、自ら「信長を討った」うえ、義昭からの「入洛要求」を「快諾した」と思われる光秀。この点を、今度は「論理的に読解」してみましょう。まず第一条件で「上意」を「義昭の命令」と仮定したなら、光秀は「義昭の命令を、承諾した」わけですよね。この文章の「裏」を言えば、「義昭の命令ではないから、承諾しなかった」となります、そして「逆」を言えば「承諾したのは、義昭の命令だったから」となるわけです。さあ、ここで疑問が生じませんか?「上意」を示してきたのは土橋なのに、土橋とは「連絡を取り合うような親交がない」んです。だとすれば、土橋の示した「上意」が「本当に義昭の命令」だと、なぜ光秀は信じられるんです?

○こんなのは「学校で習った論理的理解の初歩」です。でも、ここに気がつくことで、一つの推論が可能になるんですね。義昭本人、または、光秀もよく知っているような「義昭の側近」が、光秀宛に一筆を書いて、土橋に届けてあるってこと。その手紙の中に「詳しくは土橋が伝えるだろう」と書いてあること。その手紙と合わせて、土橋は自分の手紙を送ってきたこと。そうであれば「間違いなく義昭の命令だ」と、光秀は確信できるじゃないですか。そして、このような「考え方」をした場合は、光秀と義昭のあいだに「事前の連絡はなかった」と推定することになります。ちなみに「光秀の土橋宛」は六月十二日で、二日に「本能寺の変」です。だとすれば、事件を知った土橋が、備後の義昭に報せて、義昭が土橋に「光秀へ入洛要求を伝えよ」と命じて、土橋が光秀に手紙を書いて、それが届くのに、合計で約十日。備後と京都の距離を考慮すれば、決して「最短」とは言えないものの、かなり早い反応をしていることに、なってくるわけですよね?

○このように「国語的読解」と「論理的読解」の方向性が一致する場合、文意の確定に近づいたと言えるでしょう。文中の「上意」の言葉は義昭を指すものの、義昭は「本能寺の変の黒幕ではなかった」となります。ただし、「黒幕がいた」の先入観でも「読めなくはない」という問題が残っていますね。しかも「上意」と表記された「高位存在」が「京都にいる朝廷側の人物」だったとした場合、手紙の中には義昭のことなど「何も書かれていない」意味になってしまうわけなんです。すると光秀も土橋も、武田と同様に「義昭の復権など眼中にない」ことになっちゃいます。というわけで「武田勝頼の吉川宛」は、この点でも重要な史料になってくるんです。これが本物の手紙なら、天正七年の当時、毛利は「義昭の入洛を目指していた」し、武田は「それを知っていた」けど「協力しなかった」ことになりますが、では、七年当時の光秀と土橋は、どうだったんでしょうね?
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する