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2019年02月16日01:45

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合戦考証25「敵側の夜襲」島原の乱

○忠利は十六日付の手紙「九一五番」で「だいたい二十日前後に三ノ丸へ押し込むのではないかと、踏んでおります」と書いていました。しかし二十日になっても城乗りは始まりませんでした。その結果、先に動いたのは敵の側だったのです。

●忠利九一七「2月21日」忠利と光尚の連名
「二月二十一日、丑の下刻。鍋島の陣から大江の浜あたりまで、方々に火事がありました。火の手に数がありましたので、放火なのだろうと思います。夜討ちがあったなら、鐘をつく手はずでしたし、鐘も方々で鳴りました。寅の下刻には各軍の陣も静まりました。ほどなく静まったのですから、大したことはなかったと見えます。このように書いていますうちに、方々の使者が伝えてきたのは、松平右衛門佐殿、寺沢兵庫、鍋島殿が前線へ出ています。どの家も、城中の者を数多く討ち留めたそうです。松平伊豆殿の夜警の者が三人、夜討ちに遭遇し、首尾よく(済ました)とのこと、伊豆殿から伝えてきました。今夜のことは、聞いた話で不確かなのですが、まずお伝えしました。一揆を数多く討ち留めたとのことですから、気味のいいことだと思っております。詳しいことは、重ねてお伝えするでしょう」
追伸「なおなお、鍋島と黒田の井楼、竹束、小屋周りを焼きました。寺沢の陣でも小屋があちこちで焼けました」

○当時は「日没」を「一日の終わり」とするのが習慣なので、「二十一日の丑の下刻」というのは、「二十一日の深夜」ではなく「二十一日の未明」のことだと思われます。現代的に言えば、二十日の夜が「夜中の十二時」を回って、二十一日になったけど「まだ夜の内」という時間帯。籠城軍が城を出て、あちこちに放火して、黒田、寺沢、鍋島の軍と戦闘になった模様です。これについては、二十三日に書いた詳細報告の長い手紙がありますので、そちらも見ていきましょう。

●忠利九一九「2月23日」前文〜第七文
前文「わざわざ飛脚でお報せします」
「一つ、二十一日の夜の夜討ちのこと、前の手紙におよそ書きました」
「一つ、城中から(出てきた者)で生け捕りにしたのが七人おります。どれも一人ずつ、上使の前に連れ出して、尋問致しました。私も聞きました」
「一つ、城中(の者)の言い分は、健康状態のいい者たち五千を楯にして、松平右衛門佐、寺沢、鍋島を目がけて、四郎を大将に攻めかかろうと打ち合わせて、出たものでした。できれば家を焼けという約束だったと言いました。また、二千五百は有玄、松倉、立花、当家のほうへ出ようと決めていたのです。(立花)飛騨の前までは少し出ていましたが、大したことはありませんでした。当家のほうへは一人も出てきませんでした」
「一つ、城中で、兵に給付する米は切れて、ただいまは小豆、大豆、黍、ゴマを給しております。生け捕った(者の)話は、その点、またはその都度、一致しております。首をとった死骸の腹をあけてみると、食べてすぐに出てきたのか、これらの食物が出てきました」
「一つ、夜討ちに出てきた場所は、大江口から出てきて、鍋島の前の出丸口へ入っていきました。黒田のところの柵を五ヵ所も破り、仕寄の内側へ入り、そこから寺沢の陣取っている前を突っ切って、鍋島の本陣脇で家を百ほど焼き、そこから裏のほうの柵を二ヵ所で破り、また仕寄の内へ入って、井楼を焼き落とし、出丸の内へ戻っていきました。また、出丸から五十〜六十も放火に出てきたのを、松倉の陣から激しく鉄砲を撃ちかけたので、立花の陣所の隅へなだれ込み、立花の柵を三本は抜いたのを、内から討って出て、三人の首を取りましたなら、また出丸口へ入っていきました」
「一つ、絵図で、夜討ちの出た道すじを示しました。手紙と絵図でご理解を」
「一つ、黒田家の者で討ち死にしたのは、黒田内膳父子・一万石、明石権丞・千五百石、原吉三郎・二千石、村上又右衛門・四百石、吉永平兵衛・三百石、青木佐左衛門・千石、荒見太郎兵衛・千石、杉山文大夫・無足、二神七大夫・無足です。黒田監物の組が応戦に出て、五十騎以上でしたが、四〜五人の負傷ではありません。そのほかに弓や鉄砲の兵たちも死傷者多数だと言われています。黒田市正の家来は、死者が三十人、負傷者が四十人おります。右衛門佐の軍で取った首の数、だいたいは鉄砲に当たって死んだ者だそうです。また、手柄となるような戦いもなかったとのことです。首の数は六十三です。黒田甲斐守の軍でも三十一の首があります。黒田市正の軍では生け捕りが四人。右衛門佐殿の家来で、郡少大夫、小河内蔵允の子で縫殿、菅勘兵衛、これらの者は一段とよく戦ったと伺っております」

○まだ続きがありますけど、ここまでにしましょう。最初の一報「九一七番」を読む限り、大したことでもなかったように思えるでしょうが、「九一九番」の第七文には「黒田家の被害」が細かく書かれています。これほどの死傷者を出しているわけですね。次回に手紙の続きを書いて、状況の説明を加えますが、ともかくこれが「干し殺しの実態」であるし、同時に「仕寄の現実」でもあるんです。前にも書きましたけど、「干し殺し」とは「敵を餓死させる戦法」ではないんですよ。本来だったら、まだ兵糧の残っているうち、体力の充分あるうちに「敵は攻めかかってくる」んです。一方で「仕寄」というのは、敵が出てくるのを待たずに「城攻めの側から仕掛ける戦法」です。籠城する側で言えば、仕寄が完成したが最後で「乗り込まれてしまう」のですから、その前に「仕寄を破壊しようとする」んです。普通に想像すれば「誰でも当然にそうするだろうな」という行動を、現に敵は「やった」じゃないですか。だったら当然「敵が出てくる」の前提で、対応策をとっておくべきだと思いませんか。なのに幕府軍は、味方に被害を出してしまったんです。将軍が「手負いを出すな」と命じていたにも関わらず。
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