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2017年11月05日05:23

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本史関ヶ原47「丹羽が敵対した理由」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、細川忠興が「北国を通る」と手紙に書いていたとおりに、本当に北陸へ行ったかどうかを考えるため、前回は「前田利長の北陸戦」を解読しました。「丹後の救援」に出た利長は、石川県内の小松城を包囲封鎖し、次の大聖寺城を「乗り込み」で無理に攻め落とし、そこで士兵に多大な被害を出してしまったため、戦争の継続が不可能となって、福井県にも行けないまま、居城への帰還を余儀なくされた、というところ。ただし「小松城への包囲布陣」は継続していた模様です。さすがに「全軍撤退」となれば、戦争を投げ出してしまったのも同然で、前田家の面目は丸潰れってもんでしょうからね。最前線の敵地「小松城」に対してだけは、戦争状態を続けていたようです。

●二七号7月12日「差出」増田長盛「宛」永井直勝
●三九号二番7月26日「返信」徳川家康「宛」京極高次
●四〇号7月26日「返信」徳川家康「宛」堀秀治
●四一号7月27日「返信」榊原康政「宛」秋田実季
●四二号7月27日「返信」大久保忠隣、本多正信「宛」山内一豊

○初期の情報の流れを、今回は「石川県にいる利長」も含めたかたちで、改めて確認してみます。そもそも「大坂の事態」を最初に報せてきた手紙が二七号で、七月十二日付。大坂奉行衆は「追っての報告」を送ったようですし、利長にも報せた模様。四一号に「大坂の御袋様、ならびに三人の奉行衆、北国の羽肥州(利長)などから、早々に内府が上洛したほうがいいとのこと、伝えてきました」とあるからです。利長からの報告も「家康に届いている」わけです。ただし、二十七日の時点で家康は「上洛して、石田と大谷を成敗する」と言っています。京極から手紙が来て、詳しい事情を知ったゆえですね。新潟県の堀からも「石田に謀反の噂」の報告が来ていますけど、すでに「秀頼様への謀反ではない」と承知している家康は、堀に向けて「万が一にも上杉の反攻があるかもしれないから、防備を固めよ。肥前の者たち(前田家)も支援するからな」と書き送っています。ならば当然、利長にも「堀の支援を頼む」と書き送ったはず。京極への返事三九号二番も、堀への返事四〇号も二十六日付ですから、きっと「利長への手紙」も同日だろうと思います。

●三一号7月15日「差出」島津惟新義弘「宛」上杉景勝
●三三号7月17日「差出」長束、石田、増田、前田「宛」別所吉治

○一方の大坂です。十五日には石田が大坂城にいて、「細川成敗」の主張をしていたと見られます。そして十七日には「丹後討伐」が発令されています。とはいえ、認可を下した毛利輝元も、十七日の時点では「本気で討伐するつもりはなかったろう」と推測しました。そうならば、輝元は「細川の縁戚関係」である利長にも、事情を伝える手紙を送ったはず。その手紙が利長に届くのは、最短に見積もって五日ほど。仮に十八日に発送されて、二十三日に届いたとします。もちろん利長は、すぐさま家康に報告したでしょうけど、家康は二十七日に山内の報告で「丹後討伐」を知っていますから、利長の急報は重要度が低いですね。

○「輝元が利長に報せる手紙」は安国寺らに握り潰されたかもしれません。その場合「丹後討伐」を利長が知ったのは、丹後から救援要請が来たときになるでしょう。討伐軍への出陣命令が十七日で、翌日すぐに出陣したわけではないとしても、「誰かが丹後の細川幽斎に事情を報せている」と推測しました。じゃないと幽斎は、田辺城に兵力を結集できないからです。その段階でか、もしくは包囲布陣を受けてからか、とにかく救援要請に走った「幽斎の使者」は、七月中に金沢へ来ているはず。家康が二十六日に「堀の支援を頼むよ」の手紙を送ったのであれば、その手紙が金沢へ届くより前に、利長は「丹後への救援出陣の必要性」を認識していたことになるでしょう。では、次に利長は、どう動く?

○当然、家康に「事態の報告」をしたでしょうね。その返事が戻ってき次第に、素早く出陣できるよう、準備を調えていたでしょう。利長の敵は、大谷吉継の敦賀城。これは「謀反の噂」の段階から、すでに確定している情報ですので、よって利長は、手前にある北ノ庄城、大聖寺城、小松城に協力を求めて「救援軍への参陣要請」の使者を送ったはずなんです。ところが北ノ庄城の青木、大聖寺城の山口、小松城の丹羽、誰も「参陣表明をしなかった」ことになるわけです。ゆえに問題となるのですが、彼らは「いつ、事態を知った」のでしょうか?

●五三号8月2日「差出」長束、石田、増田、前田、毛利、宇喜多「宛」真田信之

○伏見城を落とした輝元たちは、「徳川との決別宣言」五三号を各地の「在国大名」に送ったと見られます。北陸の丹羽たちも、これが届いたことで「事態を初めて知った」のなら、少なくとも「金沢から一番近い小松城」には「利長の参陣要請」のほうが先に来ていることになりそうです。何も事情を知らないで、丹羽長重が「利長の要請を拒絶する」はずもないと思いますので、丹羽のところにも七月中には「大坂からの連絡」が来ていると考えるべきでしょう。つまり「輝元が、細川の縁戚の利長に、事情を説明する手紙を送った」のと同じころ、北陸の者たちへも「事情を報せている」と見られるわけです。この点を考慮すると、やはり「利長への手紙」は握り潰された可能性が高くなりますねえ。その場合、利長の認識では「石田と大谷に謀反の噂」から、急に跳んで「丹後が攻められた」の話になるわけで、強い危機感で「参陣要請を送る」けど、丹羽らは「穏便に片づけるつもり」の事情を聞いていることになりますから、温度差が生じて「利長に共感しない」ことになってしまうでしょうね。さらに関連事項がもう一つ。

●六一号一番8月8日「返信」徳川家康「宛」黒田長政
●六一号二番8月17日「返信」黒田長政「宛」吉川広家

○七月十八日ごろの早い時期に吉川広家が黒田長政へ手紙を送り、長政が家康へ転送して、家康が返事をよこし、受け取った長政が吉川に返事を書く、という一連の書簡。前に「吉川は中仙道で栃木の長政へ手紙を送ったのではないか」と推測しました。そして「石田らが大坂城下の港を勝手に封鎖している」ことを知るはずもない吉川が、どうして「わざわざ中仙道を行かせたのか」という疑問点があったわけです。しかし「北陸行きの使者」に紛れ込ませて送った可能性を考えると、「だから中仙道経由だった」と言えそうじゃないですか。そのころの吉川は、石田や安国寺に不信感を抱いていたのですから、石田らに気づかれないように、こっそりと長政へ報せたはずですもんね。無論これも状況証拠にすぎませんが、いくつもの状況が重なってくれば、それぞれが補強証拠になりえます。丹羽たちが利長に敵対した理由。これもまた「石田らの情報操作によって、互いの状況認識がズレていたことによるもの」と言っていいのではないでしょうか。
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