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2017年08月07日00:34

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戦後日本「サブカルチャー」の誕生と終焉

(アイフォンに外付けのキーボードが壊れたのか、つながらず、今年買ったがあまり使っていないノートPCを久しぶりに開いた)

宮沢章夫『NHKニッポン戦後サブカルチャー史』(2014年10月刊)を読んだ。(本文よりやや長い1945年以降の年表を除く)
Eテレで放送されたシリーズの一部は見た記憶があるが、3年も前だった気はしないので、再放送で見たのかもしれない。

1956年生まれの劇作家・宮沢氏は、日本サブカルチャーの、戦後日本社会・文化・風俗史について博覧強記、生き字引みたいな人だ。僕の知らなかった各分野の作家・クリエイター、アーティストもたくさん登場する。

そもそもから言うと、サブカルチャーは第2次大戦後のアメリカ発。具体的には1950年代のビートジェネレーションに発する。それは、それまでのヨーロッパの「カルチャー」に対抗するものとして生まれた。あえて誕生年を特定すれば1956年。ロックンロールが若者を席捲していた頃でもある。1956年は日本では、経済白書が「戦後は終わった」と言い、石原慎太郎の『太陽の季節』が芥川賞を受賞した年でもある。太陽族は戦後日本のサブカルチャー的現象だろうが、アメリカ由来のサブカルチャーが日本に伝播したのは1968年で、米・西海岸カリフォルニアのヒッピー文化が発祥。

本題の宮沢氏に語り下された戦後日本のサブカルチャーは、この本で活字になっただけでも膨大、微細、多彩だが、ほとんどは、元々(銀座に対して)「二流の盛り場」だった新宿で誕生し、栄えた。そして、実際には宮沢氏が静岡から上京した1970年代半ばには、その新宿の「サブカルチャーの首都」(これは僕がいま思いついた言葉)ぶりはもう見えなくなっていた。僕自身は宮沢氏より3学年上で、1970年代の東京の空気はピンとくる。

1960年代末に東京・新宿で生まれた日本のサブカルチャーは、ほとんど新宿と渋谷、たまに原宿、下北沢の辺りで発生し栄えた現象。銀座・赤坂・六本木はおろか、新宿や渋谷と同じ山手線西側の池袋さえ、堤清二と西武(百貨店)文化以外は出てこない。まあ、そもそもサブカルチャーは、宮沢氏の言うように極私的なものでしかないのかもしれない。
(未読の、各見開きで1年分の膨大な年表の中から、別な見方ができるのかもしれない)

実際のサブカルチャー史は詳細膨大になってしまうので、1カ所だけ引用すると皮肉にもその終焉を巡る箇所になってしまう。

<ともあれ、かつて僕らが時間とお金を使っていた、映画、演劇、音楽、本など、サブカルチャー的なものたちを全部蹴落として、パソコンと携帯電話がその位置に収まったわけです。使用時間だけで言えば、ですが。>

(宮沢氏は、劇作家・演出家が本業だからコンピューターは趣味にすぎなかったが、一時期は27台!もPCを持っていたという!!)

「サブカルチャーはインターネットの中に融解した」と、半ばは言えそうだ。ただいかにメディアが発達しても、人が実際に集まり直接会うことでしか生まれないものもあるだろう。
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