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2019年02月24日00:39

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合戦考証27「認識の相違」島原の乱

○二十一日の未明に敵の夜襲があって、すぐに忠興へ一報を送った忠利。二十三日には詳細報告を送りました。実は、そのあいだに「もう一通」あるんです。忠利が四日付で送った現況報告「九一三番」に、忠興が返書「一五一二番」十一日付を書いていましたが、それが届いてきたので返信を書いたものなんです。

○「九一三番」で忠利が「城の中で兵糧も弾薬も尽きたなら、必ずや出てくるだろうと思えることから、浜のあちこちに(置いて)あります兵糧と弾薬は、すべて舟に載せ、必要次第に取り寄せるのがよいとのことになり、どこの軍も舟に積んでおります」と書いたわけですが、その部分への「忠興の返事」をもう一度。

●忠興一五一二「2月11日」第四文
「一つ、城の中で兵糧が尽きたなら、必ずや出てくるだろうと思われて、全部同じに味方の兵糧と弾薬を舟に載せましょうと言われて、そのようになったとのこと。それは、どこから出てくると思われてのことでしょうか。八代衆を番に置かれました海手のほうのことかと想像します。先日は、一晩に三千ほど、具足着用で番をさせたというように伝えてこられました。その後、この番のことは、どこからもなんとも言ってきておりません。前記の対処をした以上、どうせ追い散らされるに決まっている、と言われているのと同じで、にがにがしく思います。城の中から、味方の陣所を破りにきた者が、またそのまま城へ帰ることもできてしまうでしょうね。このへんのことも、こちらでは推量のしようもないのですが」

○では、これに対する「忠利の返信」の内、第三文だけを先に見てみましょう。

●忠利九一八「2月22日」第三文
「一つ、城中から切って出るだろうとの、生け捕った(者の)話を申しあげました。立孝も当家の浜手に加わって番を致しておりました。(敵が出てくるのは)海手のことだろうとのお考え。また、前に、一夜に三千ほど具足着用で番を置きましたこと、私がお伝えしたとおりに書いてこられました。いったい何を右筆が書いたのでしょうか。残らず(敵の)侍が出てきたとしても、どうしてそんなことになるでしょうか。私が到着する前から、浜辺の番は多くを命じて、そのうえ二重の柵、前方にはなお堀をほっております。しかも柵ぎわで陣取る一隊、二隊ほどありまして、いつでも応戦に出るように命じてあります。このことを申しあげたのです。どんな書き方をしたのでしょうか」

○第三文は、忠興の手紙が残っていなければ、理解不能だったでしょうね。特に文中の「残らず侍が出てきたとしても、どうしてそんなことになるでしょうか」は、単体文では意味不明。原文だと「不残侍罷出候而も、何しに左様に御座候はん哉」です。この文章で言う「左様」とは、忠興が「どうせ追い散らされるに決まっている、と言われているのと同じで、にがにがしく思います」と書いたことを指していて、「敵の侍の全部が押し寄せたからって、追い散らされるはずなどありません」と反発しているわけです。ただし「忠興がこんな内容を書いた」ことに対して、「私が伝えたことのほかに、何か不適当なことを右筆が勝手に書き加えでもしたんでしょうか?」と言うことで、直接に「御父上様を批判しない」ように、配慮をしてはいるわけですね。原文は「如何物かき、かき申候哉」です。

○手紙史料を読むときに、このような「著者の婉曲表現」に気づくことは、大事です。気づかなければ、文章をストレートに読んで「右筆が勝手な加筆をしたことに、忠利が怒っている」と解釈してしまうでしょう。しかも私は、忠興の「一五一二番」第四文も「遠回しな表現による批判」と説明しました。ところが忠利は「父の真意」に気づかなかった模様。忠興が「どうせ追い散らされる」と書いたのは、忠利が「兵糧と弾薬を船に載せて退避させた」と書いてきたからですけども、この点について忠利は、第六文で以下のように答えているんです。

●忠利九一八「2月22日」第六文
「一つ、大江口、日野江口に、各軍の兵糧と弾薬が、どちらも船着場であるために、多くありました。寺沢が大江口に、このあいだまでおられました。人が少ないので、鍋島の仕寄とのあいだが大きくあいていました。この場所へ、夜に(敵が)出たとき、必ずや(寺沢)兵庫の兵数では支えられないことになるだろうと思っていたのですが、そうは(寺沢も)言えません。そのうえ、どこへ敵が出てくるかもわからないことですので、火をつけましたら弾薬などもどうなるかと思い、舟に置いてはどうかと上使衆へ申しましたら、上様の御弾薬を舟にお置きになったのです。各軍も、それがよいとして、舟に置きなさいと御命令。このように説明したならば、当家の兵が浜手の番を致すのに、すぐさま追い散らされるに決まっていると言われているのと同じ(だと忠興様が思われたこと)で、見苦しいとお思いになったというのは、不調法かと困惑することなのです」

○文末は「無調法と迷惑仕候事」です。これも「迷惑」を拒絶の意味で理解すると「忠興の不調法な返事に、忠利が迷惑した」という解釈になります。けれど実際は「私の説明が足りず、不調法でしたかね?」と言っているんです。それもまた婉曲表現で「ここまで説明すれば、おわかりいただけます?」の意味ですね。しかし忠興は「城の中から、味方の陣所を破りにきた者が、またそのまま城へ帰ることもできてしまうでしょうね」と書いているし、現に「そのとおりのこと」が起こったじゃないですか。この返信を忠利が書いたときに、夜襲の被害実態をどの程度まで知っていたのか、それはわかりませんが、忠利は「敵の首を多く取った」と思っているみたいで、敵の大多数が「城へ逃げ戻っている」ことを問題視してないんです。でも忠興は「せっかく出てきた敵を、城へ帰す気なのか?」と言っているんですよ。つまりこれは、戦国期なら「悉く討っ捕り候」となるはずのチャンスを、「みすみす捨てる気か?」という指摘なのだと思いませんか?
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