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2018年04月01日17:54

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食肉処理vs「動物の権利」と、「動物を殺す」

気になって捨てないでいた3月12日の朝日の記事。オランダでの食肉処理に関する新規制を巡るもの。この国では一定の条件下で、「家畜の意識を失わせてから処理する」義務が強化された。

たとえ食肉とされる家畜=動物でも、「苦痛を与えてはいけない」という思想により、オランダでは数年前から動物の痛みを軽減するため、スタンガンなどで意識を失わせてから処理することが義務付けられてきた。教義に基づく場合は例外とされていたのが、新規制では40秒経っても意識がある場合、意識を失わせることが義務づけられた。

イスラム教では、「ハラール」という教えにより「動物の意識があるうちに食肉処理をする」習慣が守られてきた。ユダヤ教の社会では「コーシャー」により、スタンガンなどで意識を失わせることが忌避されてきた。

同国のイスラム教とユダヤ教の団体は協力して規制強化に反対してきたが、新規制により処理の際に獣医師を立ち会わせる必要が生まれ、手間とコストが増加する。

両教徒の団体が反対したのは、何よりも規制が両宗教の教義に反するからだろうが、規制の動きは他の欧州諸国にも広がっている。こうした動きに対し欧州ユダヤ人会議は「ナチスによるベルギー占領以来、ユダヤ教の権利に対する最大の攻撃だ」!とまで批判している。

こうした食肉処理規制の根本にある思想的背景を確かめたくて、「動物の権利」でウィキってみると、直接的には1970〜80年代の欧米の哲学者・倫理学者らの著作に起源があるらしい。具体的には70年代のピーター・シンガーや80年代のトム・レーガン(リーガン?Regan)。(「権利」rightsという用語そのものは論者や立場によっては使われず、動物の「福利」や動物への「配慮」という言葉が用いられる)

伝統的な哲学・思想史の上では、アリストテレスやデカルト、カントなどは人間とそれ以外の動物の間に大きな断絶を認めて人間が圧倒的に優位にあるとしているのに対し、ルソーは動物には人間のような意識こそなくともそれに近いものがあると認めていたという。

上記のシンガーやレーガン以来の議論の積み重ねがあり、欧州連合(EU)は家畜を処分する際、事前に気絶させることを義務づけているが、「宗教上の処理は例外」としている。「動物の権利」ないし「動物への配慮」という思想が、単なる哲学や倫理学上の議論を超えて、EUや各国の食肉処理規制に法制化されるほど具現化している。

僕自身は日本に住み、どの宗教の教義や戒律も気にせず、好きなものを好きなように食べているから、こうした現代ヨーロッパでの食肉処理規制やコーシャー、ハラールとは無縁に日々を過ごしている(ここ数カ月は読んでいる本の中で仏教やイスラム教、神道など宗教関係の本が圧倒的に多いが、今のところ関心は観念的だ)。

ただ、宗教学にも民俗学・人類学にも素人として読みかじっただけの想像だが、日本・日本語における「生贄(いけにえ)」という言葉は、上記のイスラム教の教義などと共通するように見える。「神に捧げる犠牲は生きていなければならない」ことを示唆しているから。共に、神様には、犠牲を生きたまま捧げた後、(神に代わって)殺さねばならないのではないか?

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