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2017年11月13日01:05

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本史関ヶ原49「八月八日という日」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、ここまで分析してきた結果、「八月八日」という日が、一種のエポックとなってきました。いろいろ話が跳んで、あちこちで動きがありますので、一旦、整理しておきます。

●六一号一番8月8日「返信」徳川家康「宛」黒田長政
●六二号8月8日「返信」本多正純「宛」黒田長政
○まずは江戸にいる徳川家康。黒田長政の転送してきた「吉川広家の手紙」を読んだのが八月八日です。これによって事態の真相を掴んだ模様。石田三成、大谷吉継、毛利家の安国寺恵瓊らが、毛利輝元さえも騙したうえで、クーデターを起こしたことを察したようです。そして家康は、この日に本多忠勝を清洲へ送りました。前線の行動を早めるためだと思われます。

●六五号8月13日「差出」徳川家康「宛」浅野幸長
●七八号8月23日「差出」徳川家康「宛」黒田長政
●家康文書8月23日「差出」徳川家康「宛」加藤嘉明(七八号同文)
●家康文書8月23日「差出」徳川家康「宛」京極高知(七八号同文)
●家康文書8月23日「差出」徳川家康「宛」浅野幸長(七八号同文)
○一方の豊臣軍団は、先行した者たちが八月八日に清洲へ到着したようです。清洲城が居城である福島正則のほかは、九州の黒田長政、四国の加藤嘉明、信州の京極高知、甲州の浅野幸長など「東海道に居城のない者たち」が、一気に先へ進んだと見られます。ここからいよいよ前線の動きが始まるわけですね。

●細川家史料8月1日「差出」細川忠興「宛」ミツ
●家康文書8月24日「返信」徳川家康「宛」前田利長
○豊臣軍団とは別行動で、栃木に残った細川忠興は、丹後を目指して北陸へ向かっている途中だと思われます。丹後田辺城の救援には石川県の前田利長が出ましたが、大聖寺城を攻撃し、無理に攻め落としたはいいものの、自軍に甚大な被害を出してしまったと見られます。手紙史料からの逆算で、八月八日のことだと推定しました。通説レベルの話ですと、この日に利長は「浅井畷の戦い」をしたことになっていますけどね。一般的に語られるのは「丹羽長重の小松城を素通りして、山口宗永の大聖寺城を攻め落とした利長は、戻る途中、小松城の近くで丹羽軍の伏兵に攻撃され、自軍に被害を出した」という話。「後ろに敵城を残し、帰路で攻撃される」なんて、利長は「どこまで愚か」なんでしょうかね。こんな話を考えるのは「補給線など無視」のフィクションだからです。とはいえ江戸時代の武士たちも、城を攻め落とすことに「成功した」のに、自軍に「被害を出している」ということが「理解できなかった」模様。だから「浅井畷の戦いで被害が出た」の解釈を作ったわけでしょう。「補給路と退路の確保のために、小松城は包囲布陣で封じてある」ことなど、きっと思いつきもしなかったのでしょうね。

●五五号二番8月4日「差出」長束、石田、増田、前田「宛」松井康之
●六七号8月14日「差出」増田長盛「宛」松井康之
●細川家史料9月8日「返信」細川忠興「宛」細川忠利(ミツ)
○丹後の田辺城では、細川幽斎が籠城中。毛利輝元は「本丸に向けて仕寄を命じた」のに、細川忠興が掴んだ情報では「敵は仕寄もせず、十町も離れて陣取るのみ」です。輝元の命令どおりに「仕寄を仕掛けた」なら、「九月になっても田辺城が落ちていない」なんてことは絶対にありえませんので、これは間違いないでしょう。『細川家史料』が収録する原本史料の記述ですしね。ちなみに石田三成は、四日付五五号二番に署名しています。このころ大坂城にいたわけです。それでいて「輝元の仕寄命令を無視し、田辺城の包囲戦を継続した」のですから、包囲軍の大将は「石田の息のかかった者」だったはず。史料記述が何もないので単なる想像ですけど、「実は大谷吉継が包囲軍を仕切っていたのでは?」と思っています。一方、細川家の飛び地領「大分の杵築城」では、家老の松井康之が籠城抵抗を決断した日。四日に「明け渡し命令」が出て、十四日に「再度の説得」手紙なので、日程的に「使者の杵築来着は八日」と見られますのでね。

●四四号一番7月29日「差出」長束、増田、前田、毛利「宛」佐波広忠
○四国の猪山城包囲戦は、もう終わっているでしょう。「いつ終わった」と推定できるような史料記述は見当たりません。それでも日程的に推測すれば、「蜂須賀は降参しました」の報告が大坂に届いたのは、八日ごろになるかもしれません。

●五七号8月4日「差出」直江兼続「宛」小田切、車、本村、青柳
●景勝公御年譜8月23日「差出」直江兼続「宛」平林、西方、芋川
○上杉はどうしているでしょうか。「家康が小山から撤収」の情報を掴んだと見られる五七号のあと、本物と見られる手紙は二十三日までありません。宛名は白河小峰城にいる者たちだそうです。「その地の普請」を「在番の者どもが相談」して「入念に、丈夫に命ぜよ」と書いていて、この時期でも「白河の防備を強化するための工事」を命じているんです。徳川軍への対応に、いまだ必死のようす。

○というわけで、八月八日という日においては、前田軍による小松城包囲戦、豊臣軍丹波衆による田辺城包囲戦、この「二つの戦場」のみとなります。ただし、杵築城が明け渡し命令を拒否しましたので、いずれ「九州で合戦が起こる」ことになりますが、大坂はまだそれを知りません。豊臣軍団の先行武将たちが清洲まで来ていることも、まだ知りません。「前田利長が出陣して、小松城が包囲された」ことも、まだ報せは届いていないでしょう。しかも奉行衆は、四日付五五号二番で「伊達、最上、佐竹、岩城、相馬、真田安房守が、景勝に協力して、徳川と敵対している」と書いています。「もはや目標は達した」と思っていたかもしれませんね。けれど、本当の戦争は、ここからが始まりです。
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