『生きてこの世の木下にあそぶ』山中もとひ歌集
郵便配達人(ポストマン)の指紋をつけて届きくる表もうらも印刷の賀状
巻頭は「新年(にいどし)」の項目で始まる。一首目、めでたい賀状もこうなる。意表を突かれて、まさにその通りとうなずくばかり、ルビも軽快で「歌集である」と構えることなく始まるこころもちがする。
人の棲む家なればこそ鬼も来る蹲りいる長押のあたり
「人の棲む家」というのは当たり前ながら鬼を出す前の周到な配りがある。棲むを選んだところに鬼が馴染みやすい。言葉の選択から一首が骨太でおもおもしい。
水の面に飛沫(しぶき)をたてて突っ込んで真鴨うれしい春の川みず
一瞬の光景、スピード感があり、季節があり。「川みず」の文字の心配り。
「うれしい」は好みの人、好まない人がいるかと思うが、わたしは好きな歌。
茱萸の実の陽に透きとおる朱(あけ)の色渋いとわかっているんだ 食べる
茱萸の実は垂れている形といいかわいい存在。まずその実を褒める、しかし渋いのだ、と否定する、そして間があって、食べると肯定の、二転三転する歌。
「わかっているんだ」という言葉に諦念が含むと感じることによって、全体を喩とも読むことができる。さて。
思索には場所を選ばずバルザックの像は埋もれるあら草の中
実景だったらどういうことかと思わずいろいろ考えてしまう。バルザック像が草に埋もれている場面はすこぶる特異である。横たわりながら眉根を寄せているバルザック像が十分におかしい。
わたくしの行かなくなった商店街(アーケード)きっとどこかに旅立っている
このごろかつての商店街が寂れてゆく光景があちこちにみられる。ここもきっとそうなのではないかと思う。
しかし、それが旅立っているとはだれも考えないことである。奇想の歌でスケールが大きい。すっかり様相の変わってしまった商店街を歩いたら、そっくりどこかに元の商店街はあって、みなにぎやかに暮らしているだろうとの夢想。諦めながらの夢見が切ない。
水草の茂りすぎたる水槽の何も語らぬ饒舌もある
むおっとした水草にこんな思いが。つくづくと眺めたであろう視覚から入りながら、饒舌という聴覚をひきだした、みどりの饒舌はどのような話がかわされているのだろうか。
縦書きのアピカノートの廃番に詠草筆写すすみ難しも
今のようなカラーの表紙のノートなどなく、もっぱらアピカのノートが私たちのノートだったような気がする。まじめな表紙。
廃番のノートは知らないが「アピカノート」に惹かれた。
逆光の土塁を見上げて太古より溢れて零るる青の色かな
「逆光の土塁見上げて」下のほうから土塁(塚?)を見上げてその上は青空、という景と思われる。空の青は永遠で、エイエンを思わせる歌。
蓋一枚はずれたような秋晴れに夫は外壁(そとかべ)塗りはじめたる
秋晴れの形容が秀抜、気持ちのいい歌。
「人間の営為の半ばは移送なり」わが身のほかは今日は運ばず
カッコ内の言葉がかっこいいな、と思う。分かるような分からぬような、そしてかなり何でも当てはまるような幅広さがある。多義的なり。
しかし、ここで言っていることは、今日は何もせず怠けていますということ。
事物を見る視線、発想が独特で、それらを自由に解き、また、意味付け提供するさまが自在になされている。難しい言葉を使わず、綺羅を装わず、言葉に頼らず、それらをさらりと為遂げているような凄みがある。
するする読めるなあと思って読んでいるとかなりの質量があったりする。すると「水の面に…真鴨」のような歌があって前のめりの姿勢がリセットされるような気がする。
歌集の編集の仕方も、まとまって読めるようになっていて個性的なつくり、とても読みやすい。印象に残る素敵な歌集である。 2023年6月
わたしの鑑賞文は
愛敬も何もなくてぶっきらぼうだなあ、とがっかりする。
大したことも言っていないし、ほんとにすみませんという感じです。
わたしは歌は発想が肝心と思っている。どれだけ自由の翼を飛ばせるか。
そして四角四面も面白くないと思う。定型を否定しないが自由定型とでもいうかしら歌には自由がみなぎっていたい。
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