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2019年06月20日00:54

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合戦考証56「鉄砲と詮索」島原の乱

○「火のないところに煙は立たず」と言うごとく、フィクションというものは、適当な「思いつき」だけで書いているとも限らないもの。『甫庵信長記』を書いた小瀬甫庵が、「参考史料として『信長公記』を読んでいた」と仮定しましょうか。すると『信長公記』の記す長篠合戦には「御身方一人も破損せざるの様に御賢意を加へられ」の文章があるわけです。さらに武田軍のこととして「馬入るべきてだて」の記述、織田軍のこととして「鉄砲にて待請けうたせられ」の記述があります。ここから甫庵は「武田軍が騎馬で突撃してきたのを、織田軍は鉄砲で待ち受けて撃破したので、織田軍に被害は出なかった」と「考えた」のでしょうね。とは言っても「鉄砲で撃つだけで勝てる」とは思えなかったようで、けれども「乱戦をしたら味方に被害が出る」わけですから、「鉄砲だけでも敵を倒してしまえる方法」として考えたのが、特別な「三段撃ち」ということなのでしょう。

○このへんで、ちょっとは論理的に考えてみませんか?「鉄砲三段撃ちはなかった」と否定する人たちは、鉄砲による「三段撃ち」という方法が「なかった」と言っているのでしょうか。それとも「敵の突撃を待ち受けて、鉄砲で撃つ」という方法が「なかった」と言っているのでしょうか。同様に「武田の騎馬突撃はなかった」と否定する人たちは、武田軍の「騎馬による突撃」が「なかった」と言っているのでしょうか。それとも「武田の突撃はなかった」と言っているのでしょうか。少なくとも『信長公記』では、武田が「推太鼓を打って懸り来る」と書いていますし、織田が「鉄砲にて待請けうたせられ候」と書いているんです。よって、小瀬甫庵の創作「武田の騎馬突撃を、織田が鉄砲三段撃ちで倒す」の内から、甫庵の創作アイデア部分を取り除けば、単純に「武田の突撃を、織田が待ち受けて、鉄砲で撃った」というだけのことを、実は『信長公記』が書いているという次第。ところが不思議なもので、合戦とは「こちらが突撃していくと、あちらも突撃してきて、互いに乱戦する」というイメージが定着しています。それでいて、長篠合戦だけは「特別」で、敵が突撃してきても「織田軍は突撃しない」という変則性。

○おそらくは、武田軍が「特別」に「騎馬で突撃してきたからだ」という暗黙の了解なのでしょうね。でもですよ?「特別に騎馬で突撃してきた」から「待ち受けて、特別に鉄砲三段撃ちをした」を否定する場合、「普通に徒歩で突撃してきた」から「待ち受けて、普通に鉄砲で撃った」でいいじゃないですか?「敵が普通に徒歩で突撃してきた」ら、こちらも「徒歩で突撃しなければならない」とかって、どうして「決めつけて」しまうんです?「三段撃ち」を否定すると、どうして「待ち受けて、鉄砲で撃つ」ことまで否定してしまうんでしょうか?『信長公記』は、信長が「御人数一首(ひとかしら)も御出しなく、鉄砲ばかりを相加へ、足軽にて会釈(あしらい)ねり倒され」と書いています。誰も戦闘に出ないで鉄砲を撃つばかりで、足軽だけであしらって敵を倒した、と言っていますよ?

○結局のところ、『甫庵信長記』の書く「エピソード」を否定していながら、実は『甫庵信長記』の書く「物語」を「根本的に信じ込んでいる」ってことなんですよね。そしたら「島原の乱」の「細川家往復書簡」は、本物の手紙史料であって、物語ではありませんのでね。原城攻めについては、将軍の家光が「干し殺しでも構わないから、下々に手負いを出すな」と命じていたわけです。物語レベルでの「干し殺し」は、兵糧がなくなって餓死者が出るまで「敵が城に閉じこもっている」ことにされていますが、実際は「餓死する前に戦う」はずで、現に原城の籠城軍は、まだ元気で戦えるうちに「夜襲をかけてきた」じゃないですか。このように敵のほうが、それも徒歩で「突撃してきてくれる」んですよ。兵糧の残量が不安になってくれば、敵は自分の側から「突撃する」しか、手段がなくなるんです。だから忠興も「敵が兵糧を奪いにくると思うなら、そのとき討ち取ってやればいいものを、兵糧を後ろに下げて、敵が出てこないようにしちゃって、おまえたちは何をやってるんだ?」と書いていたじゃないですか。ただし「遠回しな表現」でしたので、書いてあっても「意味が読み取れない」みたいですが。

○敵のほうが「突撃してきてくれる」なら、それを待ち受けて、鉄砲で撃ち倒してやればいいはずなんです。ところが幕府軍は、将軍の命令に反して「干し殺しの対応」をしてなかったので、敵の夜襲を受けた途端に「自陣を飛び出して」行き、白兵戦闘をしたがために、暗闇で同士討ちまでするありさま。倒した敵の数よりも、受けた被害のほうが大きくなってしまったわけです。もしも「命令どおり」に「干し殺し」を選択していて、敵の夜襲を待ち受けていたなら、突撃してくる敵の大半を鉄砲で撃ち倒すことができていて、一気に「防衛兵力」の下がった原城を、もっと楽に「攻め落とす」ことができたのではないでしょうか。城内の兵数が「充分にある」ところへ乗り込むよりは、防衛に必要な兵数が「不足している状態」のほうが、敵の反撃力は低くなるというものです。よって幕府軍の被害も圧倒的に少なくて済んだでしょうから、忠利も「受傷を調べて詮索すること」の無意味さを、理解したのかもしれません。しかし実際上では「敵が充分な兵力」で「待ち受けている」ところへ、自分の側から「乗り込みをかけた」幕府軍。細川家でも三百人以上の戦死者と、二千人に及ぶ重軽傷者を出したのです。
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