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2019年06月08日00:56

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合戦考証53「信長の御代」島原の乱

○「信長の御代に詮索なし」という記述が、忠利の手紙「一五二一番」五月一日付にありました。これが熊本に届いたので、忠利が返事を書いています。

●忠利九三五「5月13日」前文〜第一文
前文「五月一日の御手紙、謹んで頂戴致しました。まず何より御息災でおられるそうで、めでたく思っております。こちらは変わりもございません」
「一つ、家中で有馬の詮索をすること、いろいろに選ぶわけではありません。このたびは大勢が戦いましたので、(戦闘の)証拠がなければわからないことになりますゆえ、それぞれの働きを、証拠で示すのを聞いてから(褒美を)与えるだけのことです。五人や十人が戦った程度なら、そのままわかることですけど、急に駆けつけて、大勢が一度に(城へ)入り込みましたから、それぞれに働いたことも、一人一人が証拠を立てて、間違いないことを言いたがりますので、それを聞いてから与えるのです。岐阜、関ヶ原、豊後、大坂などで戦った者たちを、どの者も(忠興様が御前に)呼び出されまして、御知行、御褒美、それぞれに下されましたのを見ておりましたので、同じようにしてみたく思い、こうしているのです。昔はこのような詮索がまったくなかったとのこと。(働きの)よかった者も、時により、場所によっては失態もあるというものだそうで、具合のいい場所に居合わせた者は、結果がいいこともあるものだということで、信長様の御代には、こんな詮索をすることが一切なかったとの話を伺いました。このことについては、教えていただきたいことばかりが多くございます。立孝、式部なども、急なことだったのに油断なく駆けつけて、満足致しております」

○忠利は「詮索」という言葉の指す意味が「自分と父とで違うのかもしれない」と思ったのでしょうか、「自分がどういうふうにするつもりなのか」を書きました。そのうえで「信長様の御代には本当になかったのですか?」と聞き返しています。そして「過去に忠興がやった論功行賞」の件を持ち出して、言外に「あのときも詮索をしていないというのですか?」と尋ねています。ここで気をつけるべきは、戦後に「家来の論功行賞をする」のと、そのために「家来の働きを調べる詮索」は、別だということ。忠興の言葉を信じるのなら、織田軍団では「個々の働きを調べもしないで論功行賞をしていた」ことになりますが、本当に?

○一応、言っておきますけども、私は『信長戦記』という「信長の合戦を描くマンガ作品」で監修をしていたんです。つまり「この問題の答えを知らない」ままで、やってたわけじゃないですよ?「細川家往復書簡」は昔に読んでます。私はべつに「島原の乱」を作品化する予定もないし、その意図もありませんが、このように「信長の問題」が出てきちゃったからには、無視できませんものね。言わば私にとって「細川家往復書簡」は、信長の合戦を理解するための史料なんです。

○さて。忠利は「家来たちが証拠を申し立ててくるので、それを聞いてから、褒賞を与えようと思っているだけ」というように言っています。ここの原文は「めんめん働き候事も、其身其身も証拠を立、紛れぬ様に申たがり候間、それを承候而遣候」です。ところで「働きの証拠」とは、どんなものを指すのでしょうか。すると忠利は、第二文で「黒田家と鍋島家の詮索」についても書いているんです。

●忠利九三五「5月1日」第二文
「一つ、黒田のこと、有馬のことでの詮索をいまだにしていないというように、前の手紙では書きましたのですが、現在は詮索も半ばで、刀、槍、石、鉄砲までによる負傷の詮索は終えたと伺っております。鍋島のほうは有馬の詮索で、役に立った者の内を上中下に分けて、千石未満の者は、上は知行一倍、中は五割、下は三割。臆病(なこと)をした者は(その)内容により、解雇、または成敗もなさるつもりだとのことです。戦った(と言う)者が、最初は百ぐらいいたのですが、みんな偽りを言って、同輩たちで証拠を詰めていきましたら、結局は十七人だったと伺っています」

○黒田家の「やり方」には、なるほどと思う点もありますね。戦場に出て戦ったことの「証拠となりうる」のは、戦場で受けた傷があること。刀傷、槍傷、石つぶてに当たった傷、鉄砲で撃たれた傷というように分類すれば、受傷の状況についても、およそわかるかもしれません。ちなみに、こういった「受傷の報告」をさせる習慣は、もっと古い時代からありまして、一般に「軍忠状」と呼ばれています。「応仁の乱」のころの「軍忠状」なども史料として残っていまして、私も本の中の「翻刻文」でなら読んだことがあります。このような「軍忠状」が現にあるのですから、昔から「詮索をしていた」ことになりそうで、だからこそ黒田家でも鍋島家でも、有玄家でもやっているのでしょうし、忠利もやろうとしているのだと思われます。中でも有馬玄蕃頭豊氏は、豊臣時代の合戦経験者です。よって普通に考える限り「信じられないのは忠興の言葉のほう」になるのですが…。

○しかし「信長」ですよ?「普通」が通じるような凡人だと思っているのでしょうか。一方では信長のことを「天才」と称しながら「普通の常識の範囲で理解できてしまう」という考え方をするから、私は不思議なんです。次回に忠興の返事。
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