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2018年12月21日01:10

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合戦考証11「原城へ仕寄」島原の乱

○島原半島の南部、有馬の「原城」に立てこもる敵軍。幕府軍は城へ向けて「仕寄」をかけることにしました。現地に到着した忠利の手紙、前回の続きです。

●忠利九一〇「1月29日」第五文〜第十文
「一つ、前記のように、兵糧、弾薬、薪も尽きたのであれば、切って出てくるばかりだろうと思われまして、残らず海のそばまで柵を付けさせました。夜は見張番をしっかりと命じ、浜へ出る口に兵数二千を命じました」
「一つ、仕寄を塀際まで付けて、竹束と塀の間を埋めることになるとのこと」
「一つ、前記のように命じました。また御命令のとおり、塀へのぼった者を、鉄砲の数に合わせて上に矢を打たせ、狭間(さま)を楯で押し塞ぎ、いろいろの道具を使って(塀を)切り破るようにも命じました。おそらく三ノ丸へは、当家と立花の仕寄だけでございます。城内へ押し込んだならば、二ノ丸とのあいだに途切れがありますので、いっぺんにはいきませんので、楯を並べて取りかため、そこで竹束を取り寄せて、持ちこたえることになると覚悟しております」
「一つ、当家の兵の後ろから、伊豆、左門、続かれるとのことを申されました」
「一つ、夕どきに忍びの者を行かせてみましたら、中の幟(のぼり)を一本、取ってまいりました。塀は、その者が行ってみた場所では五尺(約百五十センチ)ほどの高さで、練り塀のようにしてあるのを、大筒で打ち壊してあったので、安心して上へあがり、例の幟を取ってきたのです。その者が入ったところは、人も多くはなくて、塀の裏の溝に人の音が致しました。夜警の者が言うには、すでに距離も近くなっているので、油断なく真剣に巡回させている、とのことです」
「一つ、まだ今は、黒田、有馬、立花が到着しておりません」

○長い手紙で、このあとも続きますが、ここまでにしましょう。まずは最後の第十文。筑前福岡の黒田忠之、筑後久留米の有馬豊氏、筑後柳川の立花忠茂が、まだ原城に到着していないようです。第四文に「黒田の兵は一昨日に参りまして」とあるので、おそらく有馬も立花も「軍は到着」していても、江戸を出た当主が未着なんでしょうね。忠利は、江戸を十二日に出て、道を急いで二十六日に有馬へ来ていますから、「二十九日になっても、ほかの者はまだ来ないんですよ」と自慢しているようにも思えます。それとも「あいつら遅いな」とイラ立っている意味でしょうか。ともかく「各家の当主たちが揃わない」段階では、城への攻撃など「始まらない」と思われるのに、忠利は第七文で「どのように攻め込んでいくつもりなのか」を述べているわけですよ。なんて気の早いことでしょう。

○それよりも第六文に、重要な記述があります。「仕寄を塀際まで付けて、竹束と塀の間を埋めることになる」で、原文は「仕寄をへいきわ迄付、竹たばと塀の間を埋可申由に候」です。第三文には「我等仕寄は塀際へ十九間」とありましたので、城の外壁と、寄せた仕寄のあいだが「三十五メートルほどあいている」のを、最後は「塀に付ける」わけ。そして「隙間を埋める」んです。しかも、埋めるのは「竹たばと塀の間」という記述。仕寄とは「防壁を作っていく土木工事」だと言いましたが、竹束を並べて壁にしているのか、または板壁の前に竹束を置いて「さらに防備を強化する」意味なのか。距離が近くなればなるほど、敵の撃ち込む鉄砲の威力も強まるのですから、おそらく二重にしているのではないのかと、私は思いますけどね。ともあれ「竹束の使い方」は、こういう記述なんです。

○これについては第七文も参考になります。内容自体は「実際にやったこと」ではなく、忠利の「考え」にすぎませんが、そこには「忠利の認識」が書かれているわけです。細川軍が仕寄をかけているのは三ノ丸下。仕寄を塀に寄せてしまえば、塀を壊して城内へ乗り込みです。ところが、その先には「途切れ」があるそうで、つまり「身を隠せるものがない場所がある」の意味。すると忠利は「楯を並べて取りかため、そこで竹束を取り寄せて、持ちこたえることになると覚悟」と書くんです。原文は「楯を揃、取かため、扨竹把を取寄、持堅め候様に覚悟仕候」です。敵の鉄砲を防ぐのに「楯を揃え」て壁にするだけでなく、「竹束を取り寄せる」んです。だからって「先へ突撃する」のでもなく、ここで「持ち固める」んです。次の二ノ丸へ攻め込むチャンスが来るまで「この場にとどまる覚悟だ」と言っているわけ。こういう点からも「板の前に竹束」で、防弾を考えているみたいですよね。よって「板と竹束」で防壁を組んで、それを次第に「塀に寄せて」いき、塀まで付いたら「塀の矢狭間や鉄砲狭間を塞いで」敵の応射を封じてしまって、最後は「塀を打ち壊して」城内に乗り込むのが、仕寄の方法です。

○なお、外壁から三十五メートルまで寄せた仕寄ですが、その防壁の裏に「細川軍が待機している」わけではありません。第九文に「夜警の者」という言葉が出てきます。原文は「夜廻之者申候は、はや間は有間敷候間、油断なく精を出し候て廻り候へと申候」です。軍は、敵の鉄砲が届かない距離に下がっていますが、せっかく近づけた仕寄を放置していたら、敵が真夜中に「壊しにくる」かもしれないじゃないですか。だから当番制で、夜の警備を付けているんです。しかも第九文には「忍びの者を行かせてみた」というエピソード。何度も大筒(大型の火縄銃)を撃ったから、塀の壊れた場所があって、そこから中に入ってみると、人の姿はないようだったが、塀の裏には案の定「塹壕があった」うえに「人の動く音が聞こえた」と言うんです。こっちが「ちょっと入れる」なら、敵のほうでも壊れた場所からこっそりと出てきて、仕寄を破壊する可能性はあるわけで、ゆえに夜警番は「距離も近いですから、しっかりと警備をさせています」という返事。

○さて。だんだんと「実際の状況」が明らかになってきましたね。さらに手紙の続きを読んでいきましょう。しかし余談ですけども、本当に「忍びの者」が実在するんですねえ。原文でも確かに「忍之者」です。だからって「フィクション」を真に受けないでくださいな。ここに書いてあるのは、忠利が書き残した「現実世界」であって、そこに「現実的な忍びの者が実在する」ということです。フィクションの超人、テーマパークで活躍する「忍者」が実際に「存在した」という意味ではありません。こんなのは「言うまでもなく」当然ですが、念のため。
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