mixiユーザー(id:63255256)

2018年12月13日00:47

259 view

合戦考証9「忠利の出陣」島原の乱

○東大史料編纂所の公刊翻刻本「大日本近世史料」の内『細川家史料』に、細川忠興、忠利父子による「島原戦争時の往復書簡」があります。「合戦の状況を書いた手紙史料など珍しくない」と思ったら大間違いです。なにしろ「まともに合戦経験のない息子」は、細かく父に現況を報告するし、「合戦経験の豊富な父」は、手紙で書ける程度ながらも、合戦について「説明してくれる」んですからね。

●忠利九〇九「1月12日」
前文「国へ飛脚を送りますので(ついでに)申しあげます」
「一つ、島原は、今月の一日に惣攻めを致し、攻め損じまして、手負い、死人が数多く出ました。板倉内膳は討ち死に致され、石谷十蔵と松平甚三郎も傷を負われたとのこと、連絡がありました」
「一つ、肥後の兵は(先月)晦日に、島原から呼び出しの者が来たのですが、またとどめに来て、惣攻めには出ませんでした。攻め損じたのを肥後守が聞き届けて、兵を率いて、今月二日に島原へ到着したとのこと、連絡がありました」
「一つ、こちらは変わりもありません。上様はとても御息災です。島原のようすをお聞きになられて、御機嫌のほうはお察しくださいますように。なお、追って連絡申しあげます」

○寛永十四年に起こった島原の乱。将軍から「現地の指揮権」を委任された「上使」板倉重昌と石谷貞清が、江戸を出発したのは十一月十日ごろ。熊本藩細川家では、江戸にいた「嫡男の肥後守光尚」が急いで帰国し、細川軍を率いて出陣しました。藩主の忠利は、参勤交代で江戸に滞在中。隠居の身分の忠興は、京都にいて「妹の嫁ぎ先」に滞在中。そして翌十五年正月十二日、島原にいる光尚から報告が届いたので、忠利が忠興へ送った手紙です。逐語訳の第一文に「今月の一日に惣攻めを致し、攻め損じまして、手負い、死人が数多く出ました」とあります。原文は「当月朔日惣攻仕、攻損候而、手負、死人余多御座候」です。上使の板倉は討死。石谷も負傷。どんな攻め方をしたのか、具体的には書いてありませんが、基本的に「本物の戦国時代の手紙史料」であれば「惣攻め」なんて言葉はないんですよ。「惣懸り」なら、ありますけどね。しかし『細川家史料』は筆跡鑑定済みの「原本史料」ですので、忠利が「惣攻め」と書くなら「惣攻め」なんです。こういう「江戸期の大名」忠利の理解と、戦国時代末期を生き抜いた「戦国大名」忠興の理解が、手紙の中で「どう違うのか」を見ることで、本当の合戦がわかるというわけ。そのうえ「リアルタイムの手紙」ですから大変に貴重です。

○光尚は天草にいたようです。十二月晦日に「島原へ来てくれ」の使者が来て、移動する間もなく「やはり来なくていい」の使者が来て、ゆえに細川軍は「正月一日の惣攻め」には参戦しなかったとのこと。「攻め損じた」大敗を伝え聞いたので、島原へ駆けつけたのが翌二日。報告の内容としては「ここまで」です。では、この手紙が京都に届いたことで、忠興の書いた返信を見てみましょう。

●忠興一五〇九「1月18日」
「正月十二日、同十四日の手紙、一度にただいま朝方のうちに読みました。急に西上とのことで驚いています。用事があるとのことだし、私も体調がいいので、伏見まで行き、車屋のところでお待ちしましょう。会うのが楽しみです」

●忠興一五一一「1月18日」
「これほど早くもなるとは、なかなか思いもしませんで、油断致しました。もしも私が伏見へ出るのが遅れてはと思い、河内と与左衛門尉を伏見へ行かせておこうとして、支度をさせておりましたが、これも明朝に出ればいいと命じたがために、もはや何もかもがあとになってしまいましたので、すぐにも大坂へ行かれますように。今から大坂へ使者を送って伝えます」
追伸「さてさて、早いことよ。おまえも病み上がりなのに、こんなに急いで、苦しくはないのか。あきれているよ」

○忠興も忠利も、下書きは自分で書いて、右筆に清書させるのが普通のところ、時に忠興は自筆でも書き添えたり、自筆で出したりもします。「一五一一番」の追伸は自筆です。そのくらい驚いたんでしょうね。忠利の手紙「九〇九番」は十二日付で、しかも「十四日付」まで「十八日に着いている」んです。実は忠利、十二日に「江戸を出発」しています。その記述は「九〇九番」にはないですけども、これは下書きなので、清書の段階で書き添えたかもしれませんし、道中で出した「十四日付」に書いてあったのかもしれません。ともあれ忠興が「伏見まで行くから、そこで会おう」と返事を書いた十八日、もはや忠利は「伏見に到着していた」とのことです。忠興が「一五一一番」を出したあと、きっと「伏見着」の手紙が来たんでしょう。京都市内北部の「吉田家」に滞在している忠興は、今から会うのは無理だと判断して「すぐにも大坂へ行かれますように」の返事です。

○江戸から伏見まで、七日間の強行軍。忠利は「兵を率いていく」のではないため、身軽ですから、不可能ではありません。ただし、去年の秋ごろに忠利は体調を崩して、鎌倉に療養に行ったりしていたので、思わず忠興が心配して「あきれる早さ」と書き添えたんです。これほど急いだのも、無論のこと島原へ行くためですね。江戸にいる当主たちにも出陣命令が出たわけです。忠利、数え四十三歳の正月。「大坂冬の陣」以来、わずか「二度め」の出陣です。現地の近くまで到着したのが二十六日。ここから細川軍の指揮を「自ら執る」ことになります。いよいよ「忠利が実際に見た城攻めのようす」が、手紙に書かれます。
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する