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2018年12月01日01:07

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合戦考証6「忠利の迷惑」島原の乱

○江戸にいる忠利は、十日付、十二日付、十五日付で四通の手紙を忠興に送りました。その返事が京都の忠興から届いた模様。第一文から第四文までは「忠利が手紙で書いた内容」に対する「忠興の返答」に、いちいち忠利が「了解」と返事をしているもの。そして第五文と第六文は、忠利の現状を新たに書いたものです。

●忠利九〇二「11月27日」第五文〜第七文
「一つ、当家の兵数のこと、こちらからはなんとも言いようがなく、上使の御指図次第、どこへでも御番を、または兵を分けて、参じるかたちになるだろうと聞いております。御命令を受けたうえで、留守居どもが判断せよ、と申し伝えました。その際、大軍を出すのであれば、十組の全部でも出せばいいと申し伝えました。そのあとは、上使衆または豊後横目衆が参られたなら、その御指図次第になること、申し伝えました」
「一つ、立孝が出たならば、なおも残る者が少なくなるでしょうから、八代の御留守居の指図次第で、加勢を入れよ、と熊本へ申し伝えるつもりだとのこと、前の御手紙で仰せられておりましたが、このことは伝えるに及びません。他国のことでさえ心掛けねばならぬのに、八代のことをこちらで伝えなかったとしても、どうして油断があるのだろうかと思うのですが、(上様の)御意ですので、すでに申し伝えております。それについてですが、ただ今いただきました御手紙の内容と、先に(加勢を)お受け申しあげたこちらの考えは、違う意味で(お受け)申しあげたのです。立孝が出たならば、兵も少なくなるので、御留守居の者が加勢を願えば、入れてくれるということについて、加勢が必要なときは言うまでもないことながら、きっと御考えに添う感覚もあって、立孝が出れば、すぐにも加勢を御留守居から申し込むかと考えましたので、こちらで(上様の)御命じのさまを見ておりますと、なかなかだと思い、すでにお受けも致しました。それに関して、八代に加勢の必要なこともあるならば、目立つことでもありませんので、そのまま立孝をとどめて置かれたらどうかと申しあげましたが、兵が必要となるならば、あとも先も同じことだと思いましたのです。肥後守が島原へ参りましたなら、どうして(兵を)あとに残すでしょうか。いくらかでも兵の裁量は、こちらではできないことだと思って、肥後守が参陣するときは(熊本の)留守居どもが相談せよとだけ申し伝えました。不調法な考えでお受けしまして、申しあげにくいことですが、思い悩んでおります。わざわざ言うことでもありませんが、熊本の人数割など不調法なことでしかなかったかと、今は思い悩んでおります」
「一つ、八代のミカン、三たび差し上げました。御満足いただいたとのことで、かたじけなく思います」

○理解のためのポイントが二つあります。まずは第六文の末尾「今より迷惑仕候事」です。たとえば現代語で「贈り物は迷惑」と言ったときは、「贈り物は困るんだよ。要らないんだよ」の意味になりますが、古い言葉では「贈り物をもらったけど、判断に困る。厄介だな」の意味です。そこから反語で「こんなに悩むくらいなら、いっそもらわなければよかった」の意味となって、現代では「要らない」の拒絶の意味のほうが一般的。第六文の最後、原文で「無調法成心得御請、難申上迷惑仕候。不及申上候得共、熊本人数割無調法成事のみと、今より迷惑仕候事」を、現代語の意味で読むと「忠利が、幕府の指示や、忠興の忠告を、迷惑だと言って拒絶している」ように思えてしまうのですが、忠利は「忠興の手紙」を読んだことで「自分が間違っていたのかと考えに迷って、悩んでいる」んです。

○よって次のポイントは、忠利が何について「自分は間違っていたのか」と思うようになったのか、その点ですね。第六文の途中に「こちらで(上様の)御命じのさまを見ておりますと、なかなかだと思い、すでにお受けも致しました」とあります。原文は「爰元被(上様)仰付様見合、随分と存、先度之御請も仕候」です。すると「九〇〇番」十五日付に似た文章がありまして、「爰元之被(上様)仰付様見申候に、前かどに加勢被召寄候儀は如何と奉存候」です。この二つを比較しますと、上様の御命じのようすを見ていた忠利の理解が、以前は「如何と奉存」だったのが、今回は「随分と存」に変わっているんです。つまり「前もって加勢を頼むのはよくなさそう」と判断したのが、今では「上様がずいぶん強く思われているようだから、すでに加勢の件をお受けした」となっているってこと。

○これでわかるのは、忠興が手紙で「加勢はお受けしたほうがいい」と忠告してきたこと。しかし忠利は、前に手紙を出した十五日から、この返信を書いた二十七日までの間に「考えを変えた」ので、忠興に言われる前から「もう加勢の件はお受けしていた」わけです。ただし、忠利が「お受けしたほうがいいな」と判断した理由と、忠興が「そのほうがいいぞ」と忠告してきた理由が違うんです。だから「ただ今いただきました御手紙の内容と、先に(加勢)をお受け申しあげたこちらの考えは違うのです」と書いたわけ。原文は「只今被仰越候御書之内と、先度御請申上候我等心得は、ちがひ候て申上候」です。忠利の考えは「他国のことでさえ心掛けねばならぬ」くらいなのに「どうして油断があるのだろうかと思うのですが、(上様の)御意ですので」で、すなわち「加勢の必要があるとは思えないんだけど、上様の仰せならば」と受けたわけ。でも、よくよく考えてみれば「兵が必要となるならば、あとも先も同じこと。肥後守が島原へ参りましたなら、どうして(兵を)あとに残すでしょうか」で、光尚が「どうせ兵を残すはずもない。全軍で出るだろう」と思うようになって、結局は「いくらかでも兵の裁量は、こちらではできないことと思って、肥後守が参陣するときは(熊本の)留守居どもが相談せよとだけ申し伝えました」で、要は「国元に任せるから、上使の指示を受けて、あとは判断しなさいと伝えてあります」ってこと。よって「忠興様から熊本に、加勢を受けよと忠告を送っていただく必要は、もうありませんが、私はこういう考えでした。忠興様のお考えとは違っていたのです。加勢をお受けしたのは同じでも、私は不調法な考え方をしていたようで、今は悩んでいます」の意味。では、この理解が第五文の意味と合うかどうか、確認しましょう。
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