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2018年06月28日01:38

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本史関ヶ原104「最終的な史料確認」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、あと少し、確認しておくべきことが残っています。吉川広家たち毛利軍の行動です。

●七八号8月23日「差出」徳川家康「宛」黒田長政
●九六号9月1日「返信」徳川家康「宛」福島正則、黒田長政
●一二五号9月29日「返信」伊達政宗「宛」村越直吉、今井宗薫

○一二五号に書かれている「十二日の時点」の情報。毛利秀元、長束正家、吉川広家、安国寺恵瓊が後巻きの布陣をしていること。試しに彼らが「十一日に着陣した」と仮定してみましょう。それ以前は「水口にいた」と仮定した場合、九日の朝に出発している計算です。さらに逆算すれば、豊臣軍団の大垣包囲は「七日の朝に開始した」となるでしょう。すなわち豊臣軍団は、家康の到着を待たずに出陣したことになるわけです。一方、八月二十三日に家康が「前線からの情報を了解した」ことと「今度は米津を前線に送る」を報せた七八号。そして米津が前線に到着したのは八月末と見られます。ゆえに豊臣軍団は「出馬要請の手紙と行き違いになってしまった」のを、これで知ったわけですね。さらにその後、家康が「自分の出陣」を報せた九六号は一日付。五日ごろには清洲に届き、六日には岐阜にも届いているという感じ。これらの点から判断すれば、豊臣軍団は「家康の出陣を確認できたので、到着を待たずに動いた」となりそうですね?

○よって大垣包囲戦の開始日は七日の可能性。吉川たちの行動から逆算すれば、そういうことになりますけど、必ずしもそうとは言えないんです。吉川たちは、もっと早いうちに「北へ移動していた」可能性も考えられるんです。「秀秋が高宮にいた」とされていますが、実は秀秋だけでなく、移動してきた毛利軍が「高宮にいた」可能性も考えられるということ。つまり秀秋は「移動の途中で離脱した」のではなく、移動先に残ったということ。その場合は「大垣を離れて西へ下がった石田たち」も、佐和山に戻っていたことになるでしょう。要は「佐和山城で次の行動展開の打合せをした」可能性があるんです。だって「岐阜の落城」から以降、石田が「何も連絡しなかった」というのは、さすがに考えにくいので。

○こうなりますと、日にちの推定は不可能ですね。「水口にいた」と仮定するから、報せに二日、移動に三日、都合「五日後の後巻き着陣」となるのだし、豊臣軍団のほうでは「家康の出陣を知った」あとの七日となって、計算上ピッタリの数字になるわけです。しかし「高宮に移動済み」ならば、包囲の翌日に「後巻き着陣」もありえてしまいます。さらに問題なのは「包囲から何日後に後巻きが来たか?」で、豊臣軍団の推測する「敵の戦術分析」も変わってしまうんです。

○たとえば「七日の包囲開始」としてみます。後巻きの着陣を八日として、しかし「長宗我部はいなかった」の仮定にしてみます。すぐに出てきた以上は「敵の大軍が佐和山に集結している」ことぐらい、わかること。本来なら「毛利軍の大将」となるべき小早川軍がいないうえ、こちらの兵力の半分しか出してこないなら、毛利軍が「すぐに撤収し、大垣城に降参を指示して、戦線を下げる」という判断をすべき。そのとき豊臣軍団は、下がる毛利軍を追撃するべきでしょうか?

●細川家史料9月8日「返信」細川忠興「宛」細川忠利

○細川忠興の手紙に「内府が御到着になり次第、ことごとく(敵を)なで切りにしてやるだろう」の記述があったわけですね。少なくとも「家康の到着を待つ」だけの余裕があるのですから、上記の展開ではないんですよ。確実に言えるとすれば、それぐらいで、あとは何もわからないに等しいようなもの。だからとりあえず「八日の時点では、まだ後巻きが来ていないだろう」と書いたわけですが。

○次に「決戦後」を見てみましょう。「裏切り工作に吉川が応じた」という解釈のもと、定着している展開では「すぐさま停戦交渉」の話になっています。それを示す手紙史料もあるわけで、その最初が十七日付。福島正則と黒田長政が輝元へ書き送った「一一二号」です。問題なのは文末で「委曲福原口上に申含候間」と書いていますが、これが事実なら、家老の福原式部が「十七日の時点で福島と黒田に直接の面会をして、停戦交渉をした」ことになります。史料精査のときにも指摘しましたが、これは「考えられないシチュエーション」なんですよねえ。

○南宮山にいた毛利軍。「味方が敗走した」ことで、北の中仙道は通れません。東には敵の対抗布陣。西は南宮山に塞がれていて、南にも敵の布陣があるため、普通に考えるなら「退路がない」ことになってしまいます。では、仮に「退却を諦めた」ので、この場で「降伏の交渉をした」としましょうか。それなら「面会もありうる状況」ですけども、その場合「毛利秀元も吉川広家もすでに降参している」んです。その要素が手紙に一切「書かれてない」のは、なぜでしょうか?

○一見「退路がない」ようでも、なんとか退却に成功したとしましょうか。その場合は「前線の降伏交渉」ではなくて、毛利家全体の「停戦交渉」となるわけですから「手紙の内容」と一致しますが、主君に相談もなく話を進めるんですか?

○「一一二号」を受け取った輝元が、福島と黒田に返事を書いたとされる「一一三号」も、井伊と本多に送った誓詞「一一四号」も、福島と黒田に「とりなし」を謝した誓詞「一一五号」も、結局は「一一二号」の内容「前線の吉川と福原の勝手な停戦交渉」を、輝元が「事後承認しただけ」のもの。これらを「本物だと思う」のは、例の「一〇七号」があるからでしょうけど、あれには「忠節を見せたら墨付きをあげる」と書いてあったじゃないですか。秀秋は「敵対しない」どころか「寝返って、勝利に貢献」したうえ「事後の掃討戦にも参加している」みたいです。毛利家は単に「戦わなかった」だけだし、しかも「攻めない合戦」で言えば「大垣戦の後巻きは、敵が仕掛けてくるのを待つだけで、戦わないほうが普通」なんです。すなわち毛利は「何もしてない」んです。安国寺にも逃げられていて、「首を差し出す」ことさえもしてないんです。それで「領地が保証された」とか「あとで約束を無にされた」とか、なに寝言を言ってんだよって話。

○だけど「攻める合戦」なら「戦わなかったことが裏切りの証拠」ってわけ。結局「一一二号」以下の「停戦交渉を書いた手紙」は、全部が「攻める合戦」です。
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