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2018年06月16日00:05

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本史関ヶ原101「決戦の地」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、前回に「細川忠興は関ヶ原へ出てなかった可能性」を解析しました。原本史料に、そういう記述があるからですね。

●一〇九号9月15日「差出」徳川家康「宛」伊達政宗
●細川家史料9月22日「差出」細川忠興「宛」細川忠利

○忠興が息子へ送った勝利報告の手紙は「今度関ヶ原表まで被及一戦」の記述です。一方、家康が伊達政宗に送った勝利報告一〇九号では「今十五日午刻、於濃州山中及一戦」です。重要な相違点は、忠興が「関ヶ原おもて」と書いて「一戦に及ばれ」の敬語表記なのに対して、家康は「山中において、一戦に及び」なんです。候文の読解が水掛け論になってしまうので、これ以上は無理に言いませんけどね。忠興の手紙は筆跡鑑定のなされた原本史料。家康の一〇九号は転記史料でしかありませんが、「直に佐和山まで今日着馬候。大垣も今日則ちに捕り候」とありますので、「丹後救援で先を急ぐ」のと「大垣城の包囲戦である」ことを示した内容だと言えます。よって「どちらの手紙も確かに本物だ」と判断することになりますが、べつに矛盾しないんです。「山中」とは、関ヶ原のさらに西の地域を指す地名。だけど「関ヶ原に出ていない」忠興は「関ヶ原のほうまで(家康公が)行かれて、一戦に及ばれた」という書き方をしたのかもしれないんです。

○さてさて。「攻めない合戦」で解析してくると、ここまでまったく戦闘衝突が起こらないままです。最後の最後で「ひと合戦」ということになり、それで一気に決着がついてしまったことになるわけです。しかも、戦闘衝突の起こった場所が、関ヶ原ではなく「山中」だったことになります。これも微妙な問題ですねえ。

○今の関ヶ原町。北西に笹尾山があって、西に天満山、そして南西に松尾山。知られた布陣図では、このラインに「西軍が布陣した」ことになっています。ちなみに「関ヶ原合戦の古戦場地」とされるのは、関ヶ原町の陣場野という地域で、東海道本線の関ヶ原駅から北西に一キロもないあたり。笹尾山の手前です。ここなら確かに「関ヶ原」ですけども、山中は、天満山を過ぎたあたりからなんですよね。その場合ですと、北に天満山で、西に城山で、南に松尾山という位置関係になるんです。つまり「石田三成が笹尾山に布陣した」という話が消えちゃうわけですが、後世に誰かの書いた布陣図なんて、どうでもいいじゃないですか。そもそも、今まで語られてきた「合戦の展開」が、後世の作り話でしかないんだし。

●細川家史料9月8日「返信」細川忠興「宛」細川忠利

○もう一つ史料確認をしておきましょう。息子の忠利が「家康の江戸出陣」を報せてきた手紙に、忠興が返事を書いたもの。ここには「岐阜にて仕合、無残所候間、可心易候事」とあります。この書き方ですと、手紙で忠利が「岐阜の状況」を質問してきたので、「すべて終了したから安心しろ」と答えていることになります。だとすれば、今の忠興が「何をしているのか」を「我等事、何々候」の書き方で記すはずなんですよね。けれども忠興は、「内府御著次第、悉可為撫切候間、可心易候。其方連候て、見せ候はんと思計候」と書いているだけなんです。訳せば「内府が御到着になり次第、ことごとく(敵を)撫で切りにしてやるだろうから、安心するように。おまえをここに連れてきて、見せてやりたいと思うばかりだ」です。この文章を見る限り、大垣包囲戦は、まだ始まっていない感じ。

○これも「攻めない合戦」でないと、判断できない文章です。「包囲軍が城を巻くと、敵の救援軍が後巻きで着陣する」という基本形式。そして「救援軍は着陣しても、べつに攻めてこない。敵が着陣したからと言って包囲軍も攻めていかない」という基本方針。さらに「普通は包囲軍のほうが有利なので、救援軍のほうから仕掛けてくるが、大垣戦では包囲軍のほうから仕掛けざるをえない」という基本戦略。ここまで理解していれば「其方連候て、見せ候はんと思計候」の言葉の意味がわかります。「現代なら中学生」の忠利は、まだ子供扱いなので「従軍を許されなかった」んです。その息子に「見せてやりたい」と言うのは、敵をなで切りにするような「凄惨な戦場を子供に見せたい」の意味ですか?「攻める合戦」で殺し合いしか考えてないと、そういう意味にしかなりませんが、「攻めない合戦」ならば、普通は「あっちが仕掛けてくる」のを待てばいいところ、今回は「こっちから仕掛ける」必要があるからこそ、「内府がどのように仕掛けていくのか、やり方を実地に見せてやりたい」と言っている意味なわけです。その理解のうえで「内府御著次第、悉可為撫切候」の文意を理解する必要性。

○すでに包囲戦が始まっていると仮定しましょう。そして「敵の後巻きが着陣している」と仮定しましょう。まだ戦闘はしません。対陣しているだけです。どのみち「有利な敵」のほうからは攻めてきません。ゆえに「内府が御到着次第、仕掛けてやるぜ。全部やっつけてやるぜ」と解釈するならば、敵の大軍が後巻きに来ていることを意味するわけです。しかし想定とは違って、石田たちは出てこなかったじゃないですか。来たのは一部の毛利軍のみ。これでは「悉く撫で切り」の勇ましい表現と合いません。よって少なくとも「包囲布陣はしたが、後巻きは来ていない」状況で、つまり「想定と違った」という結果が出ていないと考えるべき。でも、その場合はなぜ「我等事、大垣取詰」の記述がないんでしょう?

○確定はできません。せっかくの原本史料ですが、言葉足らずで不明な点が多いんです。本物の手紙史料というのは、常にこういうもので、記述から読み取れるのは「可能性」にすぎないんですよね。だから「八日の時点で、大垣包囲は始まっているが、忠興は後詰めで岐阜城にいる」の可能性も考えられるでしょう。ともあれ「後巻きは来ていない」と見るべきだろうと思います。こういった可能性を考慮して、最も自然で合理的な展開を、最終的に組み立てられるかどうかです。
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