mixiユーザー(id:63255256)

2018年02月18日01:03

546 view

本史関ヶ原72「犬山は味方か?」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、大垣に戦場が移る前段階、前哨戦となる「岐阜攻め」について、一通の手紙史料を解読してきました。改めて全文を、原文で出してみます。説明のため、文章ごとに数字を振っておきます。

●七七号8月22日「差出」井伊直政、本多忠勝「宛」(家康披露状)

○「1今日竹ヶ鼻の椙村五左衛門、踏つぶし申候。2最早岐阜、手当の砦無御座候。3明日諸将一同に岐阜を取詰、可被攻崩評議一決仕候。4兼て如申上、犬山は御味方の体に候。5自大坂後詰可仕様子にも無御座候間、可御心安候。6若大坂より後詰の加勢出候はば、岐阜を押置、其後詰の勢を喰留、大垣を付入に乗崩可申、是又諸将一決して評議に御座候。7明日之様子を見合、御出馬之儀可申上と両人相談仕候。8此旨御披露可有之候、恐惶謹言」

○1文を「竹ヶ鼻城を攻め落とした」の意味で読むことは可能ですね。すると2文も「ほかの砦も攻め落としたので、岐阜城には砦がなくなった」と読むことができます。1文と合わせれば、「いろいろ砦を攻め落として回って、今日は最後の砦・竹ヶ鼻城を攻め落とした」という解釈ができます。ただし文中には「いつから竹ヶ鼻城を攻め始めたか」について、一言も書かれていないんです。「岐阜城ですら一日で落としたんだから、今日の一日だけで落とした」と解釈することはできますけどね。そうやって「二十三日に岐阜落城」という「ほかの手紙記述からのデータ」を入れることで、3文も「明日から岐阜城を取り詰めて、明日中に攻め崩すと評議一決した」の意味で読めるんです。しかし1文は「椙村を踏み潰した」であって、「竹ヶ鼻城を攻め崩した」とも「椙村を討ち取った」とも書いていないんです。2文にしても「岐阜城の出城がなくなった」と書くのみで、どこにも「攻めた」とは書いていないんです。「合戦は攻めるものだ」と思うことで、1文も2文も「攻め落とした」の意味で読めますけども、「降参したかもしれない」し「放棄したかもしれない」と考えれば、別の読み方も可能ですね?

○このように「読む者が持ち込む知識や考え方」によって、文章の解釈が変わるんです。後詰めと後巻きを区別する知識がないうえに、「石田が大垣にいる」の知識を持ち込めば、5文の意味は「岐阜城の出城を全部、攻め落としてやったのに、石田は大垣から出てこなかった」となるじゃないですか。その場合「御心安かるべく候」の意味は、どうなります?「家康を弾劾し、徳川に対して挙兵した石田だが、弱気になっている」ようで「これなら勝てます、御安心を」ですか?

○こういう解釈をしてくれば、6文の意味は当然「次の展開のこと」を指すでしょう。だって3文が「明日中に岐阜城を攻め崩す」んですから、「後詰めが出てきて、戦うとすれば、岐阜城を攻め落とした次」ってことです。よって「喰い留める」の言葉は「戦って、打ち破る」の意味。その後は「大垣を付け入りに乗り崩す」ってわけ。どうです?「定説化している展開」と一致する内容になりましたね?「出てきた石田と戦ったし、石田の攻撃を食い止めて勝ったのだし、それから大垣へ行った」のですからね。「ゆえに七七号史料は本物の手紙である」ってわけですよ。文章も「正しく読解できました」ってところ。けれど6文の記述は「大垣を付け入りに乗り崩す」ことを「諸将は一決して評議」なのに、大垣城を乗り崩していないじゃないですか。評議で決めたことを、なぜやめたんです?

○というわけで、私は七七号の文章を、「攻める合戦」と「攻めない合戦」の2パターンで読むことができるんです。けれど「井伊の報告手紙」などは、「攻める合戦」の1パターンでしか読めないんです。私にとって、2パターンに読める手紙史料と、1パターンでしか読めない手紙史料は、明らかに別物なんです。しかし「攻める合戦」しか知らない人は、七七号も「井伊の報告手紙」も本物に見えるんでしょう。ただし、2パターンに読める手紙史料を「攻める合戦」で読んだ場合は、必ずと言っていいほど「謎」が残るんですよ。七七号では「大垣城を乗り崩すと評議で決めた」のに、乗り崩していないことが一つ。でも、それについては「答えを示している」手紙史料「九七号」があるんでしたよね?「ここまでは戦ってやったけど、ここから先は、家康たちが来るまで攻撃しないで待ってるぜ」と「前線のほうが言ってきた」というわけで、だから乗り崩していない…。

○もう一つの「謎」が、4文の「犬山は御味方の体」です。ハッキリと「御味方に候」とは書かないで、なぜか「体」というあいまいな表現です。これについても手紙史料がありまして、八月八日付の「五九号」は、犬山城主の石川貞清宛てに家康が書いたもの。冒頭が「先日に飛脚が到来」で、文中に「あなた方兄弟は常に友好でした」の記述。原文は「其方兄弟之事、連々懇切之事に候」です。ほかに四通の関連手紙が『徳川家康文書の研究』に収録されています。これらの内容が根拠となって、「石川は早くから徳川に通じていた」の解釈です。

○史料精査の段階では「五九号」を偽造史料とはしませんでした。「ギリギリまで、あいまいな立場をとった者も、両勢力の中間地域には、いてもおかしくないのでは?」と思ったからです。しかもそのときは、岐阜戦の展開も決まっていませんでした。史料記述からわかっていたのは、「竹ヶ鼻城の降参」と「岐阜城の降参」という「結果」だけです。どういう状況で降参に至ったのかは、詰めていなかったのです。しかし展開が決まってくると、「五九号」はありえないものになります。「攻める合戦」を書く「井伊の報告手紙」では、池田輝政が河田で木曽川を越えると、岐阜城から織田秀信が出撃してきたので、戦闘になって打ち破り、逃げる織田軍を岐阜まで追いかけた、という話ですから、「そのとき出撃しなかった石川とは、戦っていないので、だから御味方のようです」と言えるでしょうね。けれど「攻めない合戦」なら、秀信とも「戦ってない」んです。垂井に来ていた島津たちも「出陣してない」んです。犬山城からの出陣がなかったというだけで、「犬山は味方です」とは言えないわけですよ。この問題を詰めてしまえば、七七号の全文章、言葉を余すことなく全部、解読が終了するでしょう。
2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する