mixiユーザー(id:63255256)

2018年02月14日02:17

274 view

本史関ヶ原71「家康出陣の戦術理解」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、いよいよ家康が江戸を出陣です。

●七七号8月22日「差出」井伊直政、本多忠勝「宛」(家康披露状)
●九六号9月1日「返信」徳川家康「宛」福島正則、黒田長政

○七七号によって「岐阜城の包囲開始は二十三日の朝」となりますが、岐阜戦の終了も二十三日とされてきました。「二十三日に攻め落とした」と書く手紙史料が「九〇号、九一号、九五号」と三つもあるせいですね。一方「家康が江戸を出陣したのは九月一日」とされています。一日付の九六号に「出馬致します」とあるのだし、ほかにも一日付で「出馬を報せる手紙」が三通もあるからです。「九七号」は藤堂高虎、黒田長政、田中吉政、一柳直盛の四人宛て。そして『徳川家康文書の研究』の「藤堂高虎宛て」と「福島正則、池田輝政宛て」です。ゆえに今までの解釈では、「岐阜落城」と「家康出陣」が無関係だったわけです。

○「九〇号」は二十七日付です。「岐阜城を乗り崩したことの報告が来ました」と最上義光に伝えるもので、「我等父子も出陣申候」と書いてはいますが、九月一日まで出陣しなかったわけですね?「九二号」は二十八日付で、藤堂高虎の報告が来たことへの返事。「治部少輔罷出候処に被及一戦、悉被討果事、潔儀、御手柄共に候」で、要するに高虎が「出陣してきた石田軍と、戦って勝利した」ことを「御手柄です」と言っていますが、続く文章は「来朔日出馬相定候」で「一日に出馬と決めました」なんです。つまり家康は「岐阜城が落ちたのか。じゃあ行くぞ」ではないってことだし、「石田を叩いたのか。じゃあ行くぞ」でもないわけです。単に「そろそろ行くべきかな」と思っただけになっちゃいます。すると「九七号」が「今迄之御手柄共、難申尽存候。此上者、我等父子を御待付候て御働、尤候」と書くんです。「今までの御手柄」すなわち「岐阜城を落としたとか、石田軍を叩いたとか」は、豊臣軍団のやる仕事であって、家康が出るまでもなかったことだけど、「この先は家康の到着を待って、それから戦う」ってわけ。

○では、合戦分析をしてきた展開と、比較してみましょう。先に豊臣軍団が行ったのは、戦力投入ではありません。七月中は事情もまだよくわかっていなくて、福島正則たち豊臣軍団とすれば「大坂がどうなっているのか、秀頼様がどうなっているのか、心配している」状態です。彼らは急いで帰るのです。移動日数を考慮すれば、清洲到着は八日ごろ。彼らはすぐにも周辺の状況を調べはじめます。江戸に残った家康は、その報告が待ちきれなくて、十三日に村越を清洲へ行かせました。豊臣軍団のほうでは「石田が佐和山にいる。誘い出して、叩くチャンスだ」と見るようになって、十七日までに戦術想定を整えると、家康に「御出馬はしばし御待ちを」と伝えます。東海地方に居城のある豊臣軍団が続々と清洲に集結してきて、江戸からは井伊直政も到着し、二十一日に竹ヶ鼻包囲戦の開始。すると二十二日に織田秀信の支城放棄。翌二十三日、岐阜城の包囲に切り替えた豊臣軍団。一方で家康は、帰着した村越の説明で「了解した。出馬は延期する」の判断です。ところが「おそらく二十五日ごろ」に石田が戦線を下げて、岐阜城の降参。その報告が江戸へ走り、受け取った家康は「すぐに行くからな。そんなにかからないからな。だから無茶をしないでくれよ」と書き送っての出陣ってわけ。

○いかがですか?「家康の出陣」の「意味」について、こんなにも理解が違うんです。それでいて、どちらの展開にも「根拠史料がある」んです。「岐阜城を攻め落とした」と書く手紙史料は確かにあるし、「石田と戦闘をした」と書く手紙史料もあるわけで、記述がある以上は「それが史実だ」と主張することも可能ですね。ただし、九六号と「九七号」は「九月一日付」で同じです。宛名にも同一人物「黒田長政」が入っているんです。それでどうして記述内容が違うんでしょうね?「九七号」では、前線のほうから「ここから先は攻撃しませんよ。家康たちが来るまで待ってますからね」と言ってきて、家康が「その通りですね」と答えています。しかし九六号は「急いで行くから、すぐに着くから、私が行くまで無茶はするな」と家康のほうが抑制しようとしているんです。この問題は史料精査の段階でも書きましたけど、どっちかが偽造史料でない限り、ありえないことじゃないですか。すなわち「合戦研究」の問題点は、第一に「史料選別」なんです。

○次に「合戦の理解」も違います。定説化している展開は、戦闘衝突の連続。木曽川を越える際に戦闘し、岐阜城を攻め落とすために戦闘し、出陣してきた石田軍と戦闘し、三度の連続勝利をもって大垣に進むわけです。七七号も史料採用するんなら、竹ヶ鼻城を攻め落とす戦闘もしていることになりますね。しかし、こちらが解析してきた展開は、まだ一度も戦闘衝突をしていないんです。駆け引きを重ねた結果として、大垣城の包囲になるわけですが、そこでも戦闘をしていません。ついに戦闘衝突になったのは「最終決戦のとき」だけなんですよ。「戦争とは、戦ってみなければわからないものだ」なんて言う人がいますけど、武力による戦闘衝突は、確かに不確定要素があるものです。「絶対に勝てる」と想定するのは、ただの慢心でしかないでしょう。ということは、定説化している展開の場合、一つ一つの戦闘衝突に「勝てる」と想定できない以上、「とにかく戦ってみる」「勝ったから次の戦いをする」でしかないってことで、戦略も戦術もあるわけないってことなんです。じゃあ「孫子の兵法」は何を書いているんですか?

○『孫子』の言葉。「勝兵は先ず勝ちて、しかるのちに戦いを求め、敗兵は先ず戦いて、しかるのちに勝ちを求む」だそうですよ?「とにかく戦ってみる」だと敗けるって言ってますよ。それでも勝てるのはフィクションだからです。「勝ったという史実」に沿って展開を作ればいいだけですからね。「実際にはありもしない岐阜城の攻め落とし」を創作しても、現実に戦うわけじゃなし、どんな不確定要素だろうと「フィクションの中では、どうにでもなる」わけですからね。しかし現実の合戦は、そうはいきませんのでね。だから『孫子』の書くごとく、敵を追い詰めていって、「勝てる」と判断したところでの最終戦闘です。それでも本物の史料では、窮鼠が猫を噛むような逆転劇も起こっています。それほど「戦闘衝突には確実性がない」んです。ゆえに豊臣軍団も「家康に釘を差される」までもなく、大垣城を包囲はしても、攻撃していないわけじゃないですか。けれど定説化している展開は、「戦闘勝利の連続」以外に展開が作れないので、ここで大垣城を攻撃しないことに理屈が要るんです。岐阜城だろうと簡単に攻め落とした豊臣軍団が、「半月を経ても大垣城を落としていない」ことの理由が必要。それが「九七号」でしょう?「大垣城を落とした話」には作れませんもんね?
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する