mixiユーザー(id:63255256)

2018年02月02日02:52

395 view

本史関ヶ原68「石田三成の誤判断」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、もしかすると「岐阜城包囲戦で、東西両軍の大決戦になっていた」かもしれないところを、石田三成の「戦線を下げる」判断により、戦場が大垣に移っていった模様です。岐阜城で「万全の籠城態勢をとっていた」織田秀信は、驚愕したことでしょうね。しかし、ここで「無理に籠城を継続」すれば、降参の機会を失うかもしれないので、たとえ「信長公以来の織田本家の本拠城」といえども手放して、降参退去するしかなかったのでしょう。その後の歴史を見れば、秀信にも復活のチャンスはあったようですが、残念ながら秀信は「数年後に病没」してしまった模様。結果的には「このときの石田の判断」が、織田本家を滅ぼしたようなもの。もっとも石田としては「敗けるための判断をした」わけではありませんのでね。勝つためにこそ「ここは岐阜城を捨てるべきだ」と判断したにすぎません。最終的に勝利しさえすれば、秀信も「放棄した領地」の全部を取り戻せるわけです。よって秀信も「指示に従って降参するのが利口である」と判断し、降参退去を決断したに相違ありません。

○問題なのは「石田の判断が間違っていた」と見られること。岐阜城包囲戦については「互いの認識にズレがあること」を書きましたが、そのズレを引き起こした張本人であるはずの石田もまた、別の意味で「認識のズレ」を起こしていたようなんです。「関東でも戦争になる。だから家康は西へ出てこられない」と味方に思わせておきながら、自分では「家康が兵を率いて必ず出てくる」と考えていたであろう石田ですが、その家康が「いつ出てくるか」は「知りえない」ことを前回に指摘しました。「後世の人間」は当然に知っていることですけどね?

●七七号8月22日「差出」井伊直政、本多忠勝「宛」(家康披露状)
●七八号8月23日「差出」徳川家康「宛」黒田長政
●八四号8月25日「差出」徳川家康「宛」大田原晴清

○清洲へ行った村越が、前線の話を聞いて帰り、家康に説明します。「いちいちの説明を聞いて、どれも納得しました」と家康が答えた七八号は二十三日付。前線では「二十三日に岐阜城の包囲が始まった」のですが、この時点で家康が聞いたのは「岐阜城包囲戦の想定」ではないわけです。前線の豊臣軍団は「佐和山城に石田がいる」の想定のもと、「なんとか石田を引っ張り出すための手段」を順々に考えていた段階の話。すると家康が「出馬は延期」と書いた八四号。ゆえに豊臣軍団は「石田を叩くところまで」なら「家康公の御出馬は必要ない」と考えていた可能性。無論「竹ヶ鼻か大垣で、石田を討ち取る」とは思っていませんよ?

○そもそも「岐阜の秀信は、なかなか出てきてくれないはず」の想定なので、まずは秀信を引っ張り出すところから。この時点の想定では「佐和山にいるのは石田だけ」のはずですから、果たして石田は竹ヶ鼻包囲の段階で出てくるか、それとも織田を叩いてのち、大垣包囲になってから出てくるか。どちらにしても、結果として「石田が出てきたとき」に「家康へ出馬要請」をすれば、その手紙が江戸へ着くのに約五日、家康の清洲到着に約十日、合計で十五日間です。そのあいだに石田を野戦に引きずり込んで、敗走させて、大垣を確保するってくらいのスケジュール。家康が後詰めを率いて到着すれば、ここから家康の指揮で「石田討伐」の佐和山包囲です。一部は先へ進んで「丹後救援に向かう」でしょうが、佐和山城は仕寄をかけてでも落とすかも。無論「石田のいない佐和山城」を落としても意味ないわけですよ。石田を佐和山城に追い込んでこその佐和山攻めです。

○『孫子』に基づく「合戦の常法」と、手紙史料の記述から、上記の展開が「豊臣軍団の想定だった」と見られます。ゆえに家康は江戸にいるんです。まだ出陣もしていません。けれど石田が「それを知るすべはない」んです。木曽川を越えて侵攻してきたのは、豊臣軍団および井伊と本多の「一部の徳川軍」だけですけども、その背後に「家康の大軍が控えていない」と言い切れるでしょうか?

○考えてみてください?「豊臣軍団が竹ヶ鼻城を包囲した」とき、垂井に来ていた「大坂側の後詰め」は、まったく動いていないんです。だから井伊と本多が七七号で「大坂から後詰めが来るようすはない」と書いていたじゃないですか。

○これも蛇足なんですけどねえ。太平洋戦争における日本軍の敗因は「戦力の逐次投入」だと言われています。誰が言い出したかは知りませんけどね。けれど戦国の合戦では「戦力の逐次投入」が「戦術の基本」なんですよ。日本軍がやったのは「戦力投入の逐次実行」なのであって、これは「戦力の逐次投入」とは似て非なることです。これの区別ができない合戦研究は、「後巻きと後詰め」の区別がないんです。本来だったら輝元は「家康の後詰めは来る」と考えるはずだし、豊臣軍団のほうでも「大坂の後詰めは来る」と考えるはずで、「前線に今いる軍勢で戦力の全部だ」と思うはずもないんです。互いに「間違った判断をしてしまった」理由は、手紙史料の記述に「根拠があった」わけで、実際には「家康も出る準備をしていた」し、「大坂の後詰めは垂井に来ていた」じゃないですか。だけど「いきなり全兵力を、前線に投入しない」わけです、お互いに。

○このまま岐阜城包囲が続いたと仮定しましょう。回送してきた毛利軍が、垂井の軍勢と合流して、大軍による後巻き。すると豊臣軍団は「毛利は来ない」の想定が間違っていたことを知るわけです。今から家康に出馬要請をしても、到着するのは半月も先。この場合、「撤退を転進と言い換える日本軍」ではありませんので、豊臣軍団は撤兵します。途端に毛利軍は追撃をかけます。豊臣軍団の退路には「濃尾国境の木曽川」が横たわっています。逃げる豊臣軍団を、追い詰めて討ち果たす大チャンス。だからこそ「撤退する味方を支援する」ために、渡河地点には「後詰めが待機しているもの」なんです。だけど大坂の側は「徳川軍が関東を離れることはできない」と思い込んでいるんです。「逃げる豊臣軍団を、支える後詰めはいないのだ」と思うからこそ、徹底的に追撃をかけるでしょう。しかし、もしも「徳川の大軍が待機していた」ら、返り討ちに遭うのは毛利軍なんです。そして「石田グループ」だけは「家康が来る」と知っているわけですね?

○だから石田は、岐阜合戦ができないんです。ここでの野戦決着はできないんです。「まだ家康が出てきていない」と知っていれば別ですが、それを知らない以上、「もう来ているかもしれない」と警戒せざるをえないんです。よって今度は石田のほうが「家康を引っ張り出す」ために、戦線を下げて「誘い込む」しかないんです。「自分の仕掛けた策」が仇となって、石田は勝機を逃したようなもの。
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する