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2017年08月28日02:37

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本史関ヶ原30「使者はどうなった?」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、石田三成が「江戸との連絡遮断を画策していたはず」の推測について、考察しておこうと思います。

●二七号7月12日「差出」増田長盛「宛」永井直勝
●二八号7月13日「差出」宍戸元次、他「宛」永井直勝、本多正信、榊原康政
●三六号7月22日「返信」徳川秀忠「宛」滝川雄利

○初期の段階で、大坂から江戸へ送られた手紙。「石田に謀反の噂」を報せる二七号、「毛利は無関係」と弁明する二八号、この二通は七月十八日ごろに届いています。また、秀忠のもとには滝川からの報告があって、「噂に問題はなさそうですね」と返事を書いた三六号が二十二日です。よって「少なくとも三通の手紙が来ている」ことは確実視できそうです。だとすれば、これらの手紙を届けてきた使者は、その後どうしたのでしょうか?

○まだ会津出陣に出ておらず、江戸城にいた家康が、二七号と二八号へ「すぐさま返事を書いた」とすれば、二十四日過ぎには返書を持って、大坂へ帰港しているはず。毛利の水軍は優秀なので、たとえ風の具合が悪くとも、七月中には帰り着くことでしょうね。また、四一号の記述内容から、大坂奉行衆は「十四日までに、追っての報告を送っている」と見られ、家康が「江戸を出陣する二十一日」より前に、届いている可能性は高いと言えます。豊臣の水軍も「毛利に負けず劣らず」ですからね。このとき奉行衆が「輝元を招請した」ことも報告してきたと仮定すれば、さすがに家康は「何かしらの返事」を書いたのではないかと思われます。その返書を持った使者が、二十一日に江戸を出港したと仮定した場合、早ければ二十七日前後に大坂へ戻ってくることになるわけです。なお、滝川が十三日に大坂で手紙を発したとすれば、秀忠が古河で返事を書いたのが二十二日。帰路も同じ日数ならば、八月二日前後、すなわち「伏見城が陥落するころ」に返事が届いているかもしれません。ほかにも在阪在京の大名や、会津出陣中の大名家の大坂留守居から、「十四日までに発送された手紙」が続々と来ていたようなので、その使者たちが江戸に滞留していたとしましょうか。仮に二十五日「家康が小山で福島正則と相談し、豊臣軍団は帰阪を決定した」とした場合、その連絡が江戸へ来て、使者たちがそれぞれの返書を持って「二十八日に出発した」とすれば、八月の半ばごろには続々と帰阪してくるわけです。反転を決めた豊臣軍団にしても、各自の大坂屋敷へ「指示を与える手紙」を送ったかもしれませんよね?

●四二号7月27日「返信」大久保忠隣、本多正信「宛」山内一豊

○定説では「最初から天下取りの全面戦争だと皆が承知している」のですから、大坂と江戸で「使者が往復する」必然性がありません。増田が送った二七号にしても「密かに裏切った増田が、極秘に報せた」という解釈なので、「使者が帰還したかどうか」を「挙兵した石田たち」が「気にする」はずもないわけです。四二号も同様で、「山内は、妻の千代が送ってきた密書を、二十五日の小山評定で提出した」の解釈ですから、誰がどこに密書を送ろうとも、石田たちの知るところではないし、まったく気にしていないわけです。

○しかし四二号の日付と記述内容を見る限り、山内が届けてきたのは「大坂の十七日情勢」のはずなんです。ただし「奉行衆が石田に同調してしまい、丹後討伐の軍事行動を勝手に始めている」の情報を、単純に理解すれば、家康の側は「権限もないのに勝手な軍事命令を出す者たちを、軍規違反で成敗する」の認識になるはずで、「畿内に残る者たちと戦争になった」という認識にはならないでしょう。けれども、そこに一つの疑問点。山内の情報が、結果的に「土佐一国に値する」ほどの重大情報だったなら、どうしてほかの大名家は報せてこなかったのでしょうかね。たとえば「徳川にベッタリ」と言われる黒田長政、藤堂高虎。これらの大坂屋敷は、何もしなかったのでしょうか。この点を考えた途端に「石田グループが情報の封鎖をしている」可能性を、考慮する必要が出てくるわけじゃないですか。誰もが報せてくるのなら、情報価値はそれだけ下がりますし、ほかには誰も報せることができなかったのなら、その情報価値は跳ね上がるわけですからね。しかも山内の情報には「大坂城下が封鎖されて、連絡もできない状態」が含まれることになるのです。それすなわち「会津出陣に出ている豊臣軍団の妻子が、城下から逃亡できないように封鎖されている」ということでしょう?

○黒田如水の偽書手紙「五一号一番」には「九州や四国の衆の人質を、輝元様が御預かりになるように」の記述があって、「人質が奉行衆の手にあると、輝元様への御馳走ができなくなります」と書いています。日付は八月一日ですが、「大坂城に輝元が入ったことを報せる吉川広家の手紙」に対する返事なので、内容としては「七月十七日を過ぎたぐらいの大坂情勢」です。この手紙を定説では本物と見て、「如水が吉川に、毛利離反の工作を仕掛けるもの」としています。だったら当然、七月中から「妻子の逃亡を防ぐ対応」があってしかるべき。大坂城下は戒厳令下に措かれているべきじゃないですか。ただし「本物の手紙史料だけで読み解く」と、輝元たちは「次第に戦争を考慮していく」のが実際です。「最初から戦争を想定している」のは石田グループなのであり、輝元たちではないのです。だからこそ「五一号一番」は偽書判定なのですが、だとしても、輝元たちの知らないところで勝手に「城下の封鎖」をしていた可能性までは、否定できません。さらにもう一点、「石田の大嘘」がありましたよね?

●五五号二番8月4日「差出」長束、石田、増田、前田「宛」松井康之

○「伊達と最上が上杉の味方で、徳川と敵対している」の記述。「家康は上杉討伐がこじれて、関東では戦争になる」という理解。この手紙が本物で、輝元たちが「この理解を受け入れていた」とした場合、そこに大坂奉行の使者、毛利家の使者が帰阪してきて「豊臣軍団の西進。家康の反転」を伝えたらどうなります?

○嘘をついてまで、大坂と江戸を分断しようとしていた以上、嘘がバレることは困るはず。石田の狙いは「敵に報告が行かないこと」にとどまらず、「敵の正確な情報を味方に知られないこと」でもあるはずです。だったら「使者の帰阪」は邪魔ってもの。何かしらの対応策をとっていたはずでしょう。しかも五五号二番には「妻子を人質に大坂で押さえてある」の記述があります。「本物の家康弾劾状」とおぼしき五三号にも「妻子を人質に置いてある」の記述。八月に入れば輝元たちも「人質の逃亡を防ぐ必要性」は考慮して当然です。ならば石田グループも、八月からは堂々と「城下の封鎖」ができて、一石三鳥なのでは?

○ところで。家康との決別を決断した輝元。家康のことを信じられなくなった奉行衆。たとえそうだとしても、自分たちが当初に送った使者のことまで、きれいさっぱり忘却してしまうんでしょうか。使者が帰ってこなくても気にしないのでしょうか。そんなはずもないわけですが、石田グループによる「味方をも騙す封鎖」のせいで「使者が戻れない」とすれば、彼らはどう思うでしょう?「身内の誰かが邪魔をしている」と疑うよりも、「徳川が使者を帰さないのだ」と考えるほうが自然というもの。家康に対する不信感をますます募らせて、石田にとっても好都合。これで一石四鳥です。では、大坂の側が「おかしい。使者が帰らないぞ」と思うようになるのは、いつごろでしょうね。加えて別の疑問点。大坂城下に入れなかった「味方の使者たち」は、その後にどうしたのでしょうか。物語においては「手紙を運ぶ使者」なんてエキストラなど、どうでもいい存在でしょうけど、この点を考慮しないと、大坂衆の「八月行動」は推定できそうにない感じです。
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