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2017年08月20日03:26

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本史関ヶ原28「家康の江戸帰着は?」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、いよいよ東西間の対立関係が構成されてきました。徳川家康が江戸城に戻ったのも、このころのようです。

●五七号8月4日「差出」直江兼続「宛」小田切、車、本村、青柳

○直江兼続が「福島城にいる者たち」に出したと見られる手紙。追伸に「家康は小山から引き返したとのことです。本当かどうかを確かめてのち、伝えるつもりです」の記述があります。原文は「家康自小山被引帰之由候。実説聞届、可申遣候」です。実を言うと「家康が小山に滞在していたこと」を記す手紙史料は、本物と見られるものの中では、これ一通しかないんですよね。「小山評定」の話が定着していたので、「小山ではなかったかも」と疑ってみる者はいないようなのですけど。

○五七号が本物であれば、「家康は小山にいて、そこから江戸に引き返した」と確定が可能です。たとえ「ある事柄を記述する手紙が一通しかない」としても、その手紙が「ほかの内容から判断して、本物の史料と言える」のなら、確定できるのです。ただし、四日付の手紙で「引き返したという話だ」の伝聞なんですよね。直江は居城のある山形県米沢にいると考えられますが、もしもそうなら、栃木県の小山から福島県の白河、会津を経て「米沢に話が届いた」のが四日です。家康が小山を出たのは「一日前後」になるでしょうね。そして定説では「家康の江戸城帰着」が五日です。ちなみに江戸から出陣した際は「二十一日に江戸を出立、二十四日に小山へ着」と見られますので、それを参考にすれば「二日に小山を出立、五日に江戸へ着」となりえます。しかし問題が一つあって、定説が「五日に江戸着」とする根拠史料。七日付で家康が、伊達政宗に宛てた手紙に「五日に帰着」の記述があるそうなんですが、この手紙史料が手元にないんですよね…。

●五六号8月4日「差出」徳川家康「宛」福島正則

○こちらは四日付で家康が書いたもの。「先発として井伊兵部少輔(直政)を派遣します」と伝えたうえで、「私が出馬してくる以前は、なんであっても彼の指図に従って、話し合われていただくのが、私としては本望です」の記述。定説のとおりに「五日の江戸帰着」であるならば、この手紙は「江戸に着く前」の移動中に書かれたことになるわけです。埼玉県の春日部か、越谷のあたりでしょう。当時は東海道が整備されていませんので、「日本橋から品川へ」ではなく「四谷のほうから品川へ出る」ため、井伊が江戸城へは帰らずに、直接に東海道へ進んでいったとした場合、手前で別れて「板橋のほう」へ進路を向けた可能性は、確かに「ある」と言えます。ゆえに家康が「帰城の前日、井伊を先発で送ることを決めた」と解釈するのは可能です。ただし「井伊が直接に行ったなら」の話です。

●六二号8月8日「返信」本多正純「宛」黒田長政

○家康の側近である本多正純は、この手紙で「井伊兵部は体調が悪いので、本中務を清洲まで進ませておくことにしました」と告げています。結果的に井伊直政は関ヶ原決戦に出ていますので、本当に体調を崩したのかどうか、はっきりしないわけです。しかし六二号が別の面で本物と見られる以上、この記述を無視するわけにもいきません。だとすれば、何も井伊が「江戸城には戻らず、直接に行った」と考える必要がなくなり、「改めて戦闘の準備を調えてから、八日前後に出発する予定だった」と解釈することも可能です。すると「四日の時点で、家康も井伊も、江戸城に戻っていた」の可能性が出てきてしまうんです。また「直江が米沢にいる」と想定したうえで「最短に見積もった場合」として「一日ごろに家康は小山を出立」と見たわけですが、なにせ「敵地の情報」なので、最短であるとも限りません。ゆえに小山を出たのは七月中の可能性もあります。「このころの直江は会津にいた」と想定すれば、家康の小山出立が何日なのか、もはや推測も不可能で、「七月二十九日以降、八月二日以前」としか言えなくなるのです。

○七日付「家康の伊達宛て」は、『徳川家康文書の研究』に収録されているとのこと。この本を所有していません。必要とおぼしきページをコピーしてあるだけです。見落としたようで残念です。もしくは「一読でわかる偽造史料」だったので、コピーをとらなかったのかもしれません。「内府違いの条々」もコピーをとりませんでしたからね。なにしろ、あのときは『日本戦史関原役』に足りない史料を探していたので、明らかな偽書に用はなかったのですよ。なお、ついでの余談ですが、『上杉家御年譜』掲載の七月二十七日付「直江の手紙」には「白河より伝えてきたのだが、岩付から内府は引き返したそうだ」の記述。「岩付」とは埼玉県の岩槻なのでしょうが、そんな場所に家康がいるはずもなく、定説もこの記述を捨てていますが、それでいて、この手紙が記す「伊達軍との戦闘」は採用しているのです。つまり「この手紙は本物だ」としながらも、「岩槻から引き返した」というのは伝聞にすぎませんから、「直江の元に間違った情報が来たのだろう」と解釈し、次の八月四日付五七号では「正しい情報が来たのだ」としているようなんです。でも、「岩槻から」の伝聞情報が間違いなら、五七号の「小山から」の伝聞情報だって間違っているかもしれないじゃないですか。「家康が小山にいた」というのは、江戸時代に書かれた記録によって「小山評定の話」が定着したから「信じられていた」だけかもしれず、五七号の記述も「間違った伝聞情報」だったなら、根拠史料が消えるんです。なのに「岩槻は間違った情報。小山は正しい情報」と「決めてしまう」のは、「江戸時代の記録と一致しているものが、戦国時代の手紙史料として本物である」という本末転倒なわけでしょう?

○直江の手紙「七月二十七日付」は「ありえない合戦」を書く偽造史料です。偽造史料に書いてある内容が、史実と一致しようとも違おうとも、何も関係ありません。だからこそ「本物の手紙史料だけで読み解く」ことが、大前提となるわけです。八月七日付「家康の伊達宛て」は、いずれ確認してみるべきですが、もしも偽造史料であれば、「五日に江戸帰着」の根拠史料はないことになります。きっと、八日の時点で「井伊がどこにいたのか?」が重要な鍵となるのでしょう。
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