mixiユーザー(id:63255256)

2017年08月04日02:55

245 view

本史関ヶ原24「輝元の行動の補強証拠」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、時間的に先の手紙を見ておきます。

●五三号8月2日「差出」長束、増田、石田、前田、毛利、宇喜多「宛」真田信之
●六九号8月15日「返信」徳川家康「宛」妻木貞徳
●七二号8月20日「返信」徳川家康「宛」分部光嘉
●七四号一番8月21日「返信」徳川家康「宛」真田信之

○石田三成の策略によって、毛利輝元は「伏見城を実力行使で退去させる」決断をします。出陣命令が出たのは七月二十三日と見られます。翌二十四日に大坂から出陣すれば、「伏見城が抵抗した」の報告を夜には受けているでしょう。「家康が救援出陣を想定している」かもしれないので、岐阜城の織田秀信に「確かめる使者を送った」と推測したわけですが、信長の史料を見る限り、京都から岐阜まで二日半で手紙が到着しています。大坂からなので半日を加えましょう。二十五日の朝に出発したとすれば、二十七日の夜には到着。返事を受け取った使者が翌二十八日の朝に岐阜を出れば、三十日の夜に大坂帰着。旧暦に「三十一日」はありませんので、翌日の「八月一日」に攻撃を決断して、命令を発すれば、二日の夜明けから「乗り込み」の開始です。時間的には「考えられる範囲」です。

○伏見城には防衛可能な兵力もないので、半日足らずで落城。報告を受けた輝元は、奉行衆と連名で「家康との決別宣言」を各地に送った模様。収録されているのは五三号「真田信之宛て」の一通のみですが。

○さて。時間は先へ跳んで、八月二十一日付の七四号一番です。江戸にいる家康が、真田信之に返事を書いたもの。冒頭の「お手紙を読みました。大変に喜ばしい」を、定説では特に注目していませんが、とても重要です。なぜなら五三号があるからです。父の真田昌幸は長野県上田、息子の信之は群馬県沼田。領地は離れていますが、会津出陣のために揃って出陣し、栃木県の佐野に来ていたところで、石田三成が挙兵を報せる「密書が届く」のです。奉行衆の書いた「家康弾劾状も届く」のです。すると、父は石田の味方、息子は徳川の味方となって、父子で道を違える「犬伏の別れ」です。「すっかり定着している」この話。けれども五三号こそが「本物の家康弾劾状」であるならば、七月中に「開戦報告の手紙」が来ているわけがないんです。しかも五三号には「関東へ行っている者たちも妻子を人質に大坂へ置いてある以上は、異議もないことだろう」と書いてあるんですよね。信之に送った手紙の中で「関東へ行っている者も異議はないはず」と言っているのですから、つまり信之は「関東へ行っている者ではない」ってことであり、すなわち信之は「会津出陣には出ていない」ことになるじゃないですか?

○さらに五三号は「上方の、在京している者、在国している者は同様で、秀頼様に御忠節申しあげることは絶対の覚悟です」の文章があります。原文は「上方在京在国之衆」なので、領国を離れて京都や大坂にいる者、畿内周辺で在国している者、「彼らも秀頼様に御忠節」という意味です。「伏見城を落とす決断」をするにあたって「織田秀信らに意思確認をしただろう」と推測しましたが、史料記述にも「そういう意味」が書いてあるのです。そして輝元たちは、遠くで在国している者のうち「会津出陣に出ていない者」に、決別宣言を送ったことになるわけで、その一人が「群馬県の真田信之だった」ことになりますよね?

○一日違いの八月二十日付で七二号もあります。三重県の小勢力「分部光嘉」への返事。冒頭は「西尾隠岐守のところへ届いた手紙を読み、理解しました」なので、「家康から来た手紙に分部が返事を書いて、家康がまた返事を書いた」わけではないでしょう。徳川家の西尾吉次に分部が手紙を送り、西尾が「家康様に見せるべきだ」と判断し、読んだ家康が返事を書いたと見られます。分部が「なぜ西尾に手紙を送ってきた」のか、それを西尾が「なぜ家康に見せた」のか、家康が「なぜ返事をわざわざ直接に書いた」のか、それは「八月二日付の決別宣言が分部にも来たからだ」と考えれば、七二号の書く家康の返事「信濃守(三重県の富田信高)が味方であり、そちらの城に移られたとのこと、このようなときですから、精一杯になさるのは、確かにそうです。近日中に出馬しますので、安心してください」の文章は、きれいに意味が通じるってものです。五三号とほぼ同文の手紙を読んだ分部は、「冗談じゃないぞ。徳川様に報せて、大坂に対して防衛しなきゃ」と考えたに相違ありません。さらにもう一つ、六九号があります。岐阜県東部の小勢力「妻木貞徳」への返事。冒頭は「そちらのようす、詳細な手紙を読みました」で、やはり妻木が「何かを報せてきた」ことがわかります。八月十五日付なので、分部や信之よりも「少し早い」のですが、八月二日の決別宣言より前に「織田秀信には確認した」と見れば、秀信が岐阜県の勢力に報せた可能性。ほかの地域よりも早く「妻木は事態を知った」の推定が可能となりますね?

○伏見城の陥落について「現実の合戦」を考えるとき、推定できる輝元の実際的行動。経過時間を見ても、手紙の内容を見ても、確かに合致する手紙史料が「ある」のです。七月二十三日の戦争決断、八月二日の決別宣言、この「展開」に従えば、真田軍記の「犬伏の別れ」は消滅してしまいますが、五三号の記述をよく読むと、信之は「ずっと領国にいた」ことになりますし、「決別宣言を受け取った信之が、それを報告してきた」と推定しうる七四号一番までもがあるんです。
2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する