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2017年06月24日16:49

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本史関ヶ原20「七月末の輝元の構想」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、同じく「七月末の行動」を、今度は毛利輝元の側で詰めていきます。関連の手紙は四通です。

●四四号一番7月29日「差出」長束、増田、前田、毛利「宛」佐波広忠
●四四号二番7月29日「差出」毛利輝元「宛」佐波広忠、村上元吉、村上景親
●五二号一番8月2日「差出」長束、増田、前田「宛」鍋島勝茂、毛利勝永
●五二号二番8月5日「差出」毛利輝元、宇喜多秀家「宛」鍋島勝茂、毛利勝永

○五二号一番は「伏見城が落ちたこと」を書いています。佐賀県の鍋島勝茂と、福岡県小倉の毛利勝永が、攻撃に際して手柄を立てたので、三奉行の長束らが連名で書いた「感状」です。二番もあって、同じく鍋島勝茂と毛利勝永宛ての「感状」で、大老の毛利輝元と宇喜多秀家が連名で書いたもの。よって本物と見ていいでしょう。すなわち伏見城は、二十三日に出陣命令が出て、八月二日には「落ちている」ことになるわけです。すると興味深いのが、その中間にある四四号です。一番は輝元と三奉行が、二番は輝元が単独で、「戦陣の定め書き」を書いたもの。攻撃対象は、徳島県の蜂須賀家政の居城です。ほとんど史料がないせいなのか、この戦いについては、定説でも通説でも、触れている本を持っていません。

○伏見出陣から順に見ていきます。二十三日に出陣命令が出たと仮定。二十四日の朝に、部隊が大坂を出たとすれば、場所が伏見ですから、当日中に布陣が完了です。即時に降伏勧告がなされて「明け渡しを求めた」と想定。それを「留守番の鳥居らが拒絶した」のなら、夜には大坂の輝元に報告が行くでしょう。当然ながら輝元は「驚く」わけです。前にも書きましたが、「救援のあてもない孤城」が「籠城抵抗する」なんて、当時の常識では考えられないからです。ゆえに輝元は「救援のあてがあるから籠城したのだ」と考えるはず。「伏見城の配備は少ないが、それは家康の罠であり、実は後方に救援配備がしてあるのではないか」と疑うはず。つまり、「会津出陣に出ていない」畿内周辺の大名が、事前に「家康の意を受けて」いて、いつでも伏見城の救援出陣に出られるよう「準備をしてある」可能性を思うでしょうね。その場合、恐いのは誰でしょうか?

○第一に思い浮かぶのは、岐阜県の織田秀信。中納言という位階の高さ。領地規模に基づく保有兵力数も相当なもの。そして伏見までの距離。しかも秀信の家臣団には、「信長以来」で仕えている近江、美濃、尾張、伊勢の出身者が多く存在するのです。秀信を前線の大将にして、この地域の勢力が連合すれば、たとえ福島正則が「本当に会津出陣に出ていて清洲を留守にしている」としても、かなりの兵力が救援に出てくることとなるでしょう。だから当然、輝元は秀信に使者を送って「確かめた」でしょうね。しかし秀信は「何も知らなかった」ようで、結果的に「輝元の側に付いた」のは、定説でも語るとおりです。だけど「この時点」の輝元は、それさえも「疑ってみないわけにはいかない」はずなんです。では、ほかに疑ってみるべき者は誰なのか。その一つを示すのが、四四号なのではないでしょうか?

○関ヶ原合戦において蜂須賀家政の動向は不明です。一つだけ確認できるとすれば、息子の至鎮が、慶長五年に当主となっていることです。至鎮は天正十四年の生まれですから、数え十五歳の少年です。「父の家政が急死したため、若い嫡男が家を継承した」ように思えますが、家政は江戸時代の寛永年間まで存命なんです。蜂須賀家の記録史料だと「家政は西軍で出陣していたが、子の至鎮が東軍にいたため、戦後は隠居で済んだ」となっているそうですが、同じ天正十四年生まれで、秀忠の小姓になっていた細川忠利(ミツ)でさえ、「まだ歳が足らない」として従軍を認めてもらえなかったんですよね。このデータと四四号を合わせれば、家政は居城にいて、毛利軍(宛名の村上元吉は村上水軍の将)に包囲された結果、降参したと見るべきでしょう。つまり、輝元の協力要請は拒絶、ゆえに包囲布陣を受けて、戦わずに降参退去、そうやって「戦争に参加しなかった」ことにより、戦後に息子が元の領地を返してもらった、という可能性が大。しかし江戸時代になると「戦わなかったこと」を恥じるようになって、藩の公式記録ですら「書き換えてしまう」んでしょうね。けれど「まだ若すぎる至鎮」だからこそ、このとき「実は大坂城下の屋敷にいた」と考えてみたら、どうでしょうか?

○家政が「輝元に従わない」と選択して、なおかつ「豊臣家にお手向かい」したなら「大坂の妻子は成敗」です。降参して領国を失っても、最終的に「家康が勝ち」なら「領地を返してもらえる」んです。ちなみに定説では、至鎮が「家康の養女」と婚約し、そのせいで家康は「太閤様の掟を破って勝手な縁組をした」と叩かれていますよね。一説では、家政も「石田を謹慎に追い込んだ七将」の一人とされています。家政の選択が「婚約を結んだ徳川を信じたから」なのか、それとも「石田が信じられなかったから」なのか、ビミョーなところですけども、結果的に息子も無事だし、領地も無事で、賢いじゃないですか。二十九日という時期に出陣命令が出ている点を重視すれば、輝元が「相応の兵力を持ち、周辺で在国の者」の意思を「確認した」ことの証拠と見ていいのではないかと思います。
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