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2017年06月20日16:38

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本史関ヶ原19「七月末の家康の構想」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、いよいよ「戦争の勃発」と言える状況になってきました。徳川家康の「七月の行動」を詰めておきましょう。

●四〇号7月26日「返信」徳川家康「宛」堀秀治
●四二号7月27日「返信」大久保忠隣、本多正信「宛」山内一豊
●四五号7月29日「差出」徳川家康「宛」黒田長政
●細川家史料8月1日「差出」細川忠興「宛」ミツ

○本物と見られる手紙の中で、「石田と大谷が謀反」と断定で書いた最初が四〇号です。冒頭には「其許之様子」を「早々示」して「祝着之至」で、次に「仍石田治部少輔大谷刑部少輔逆心付而」と続きます。記述読解のポイントは「仍」の文字ですね。普通は、前の文章と次の文章をつなぐ言葉ですから、堀が「示し」てきたことと「石田と大谷の逆心」は、つながった意味だと見るべきでしょう。ゆえに「其許之様子」とは、堀の領国の状況ではなく、西から伝わってきた「石田と大谷に謀反の噂」のことだと思われます。大坂が、石川県の前田利長に報せたので、利長が新潟県の堀に報せ、堀は徳川に報せてきた、と理解すべきなんです。よって、前回に指摘したとおり、四〇号は本物で間違いないでしょう。すると文中には「上方人衆、今日二十六日、悉登申候」の記述がありますので、栃木に来ていた豊臣軍団は、二十六日に反転を始めたと見ていいようです。

○しかし四二号が示すのは、二十七日に山内一豊の報告が来たこと。「大坂のようすを伝えてきた」とあって、次いで二十九日、黒田長政ヘ「先日に引き返したあとで、大坂奉行衆が離反したらしいことを言ってきた」と送った四五号。山内には「明日、ご面倒でもお越しになってほしい」と書いていて、黒田には「相談したいと思ったのだが、すでに進んでいるからやめておく。詳しい話は羽三左に伝えておく」です。二十七日なら、まださほど進んでいないでしょうから「面倒でも来てくれ」のところ、二十九日になると、もうだいぶ進んでいるわけでしょうね、「相談したいが、やめておく」ってことのようです。ただし羽三左(池田輝政)は、二十九日の時点で、家康の近くにいたことになりますよね。豊臣軍団は、全部が揃って一斉に引き返したわけでもないようです。もしかすると、宇都宮、小山、古河と、奥州街道沿いに分駐していて、各所から時間差で出発したのかもしれません。「小山評定で集まった」の話が定着していたため、まるで「小山に全軍がいて、一斉に西進した」かのようなイメージになっていましたけどね。

○八月一日に細川忠興が息子宛てに書いた手紙。ここに「幽斎ヘの援軍となり、北国を通っていく」とあります。細川軍は宇都宮に着陣していましたので、まだ出発していなかったのかもしれません。そこに「大坂奉行衆が離反したらしい」の報告。すなわち「十七日に丹後討伐が発令された」ことの情報です。「北国を通る」というのは、前田利長と合流する意味で間違いありません。原文は「幽斎ヘうしろつめ」ですからね。江戸時代になって書かれた史料では、「後詰め」の言葉を単純に「援軍」の意味で書きますが、戦国時代に書かれた本物の史料の場合、包囲軍または救援軍の後方で補給を担当する部隊、もしくは、包囲軍または救援軍の増援として送られる部隊を指すのです。この場合だと、包囲軍は敵ですから「救援軍の増援として行く」の意味になるわけだし、忠興自身が救援軍として行くのなら「後巻き」という言葉になるんです。つまり「丹後の田辺城を救援に行く軍団が、細川軍とは別にある」ことを、「後詰め」の言葉が示しているわけです。北国にいるのは、もちろん前田利長ですし、何よりも、忠興の嫡男の嫁は、利長の妹です。当時の大名が、より上位の大名家から嫁をもらうということは、こういうときに「救援してもらう約束」なんです。だからこそ、丹後に残留していた細川家の家来衆は、国内で最も東に位置する田辺城で籠城しているわけのはず。「前田家の救援を想定」して、少しでも近い場所を選んでいるはずです。

○では、なぜ家康は、豊臣軍団の全部を引き留めて、北陸経路で行かせなかったのか。それは、前田の居城(石川県の金沢)から丹後ヘ進む途中に、越前の敦賀城。大谷吉継の居城です。これだけが相手ならばいいけども、今や「奉行衆が加担」したうえに、「丹波の大名などに出陣命令が出ている」ことも「山内の最新報告」で知ったわけです。だとすれば、丹波の亀山城も敵だと想定されます。近江から若狭を経由しようにも、中仙道のほうには石田の佐和山城が、東海道のほうには長束の水口城が控えています。「丹後ヘ行く道」は全部が閉ざされているようなもの。ほかの大名衆が、どういった態度に出るかは不明ながら、「判明している状況」だけでも、丹後救援が厳しいことは明白なのです。よって北陸経路は前田に任せ、親戚であり当事者でもある細川に支援させ、あとの豊臣軍団は、彼らの居城のある東海地方を基盤にしつつ、どこの誰が味方であり、どこに突破口があるものか、慎重な判断をしていくしかないでしょう。つまり「七月末の時点」の家康は、まだ進路を探っている状況で、本当の意味での戦略構想はなかったに違いありません。
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