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2017年06月16日17:04

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本史関ヶ原18「山内一豊の真の功績」

○本物の手紙史料で読み解く関ヶ原合戦、新情報が届きはじめた関東の情勢を、さらに見ていこうと思います。関連の手紙は五通です。

●三九号二番7月26日「返信」徳川家康「宛」京極高次
●四〇号7月26日「返信」徳川家康「宛」堀秀治
●四一号7月27日「返信」榊原康政「宛」秋田実季
●四二号7月27日「返信」大久保忠隣、本多正信「宛」山内一豊
●四五号7月29日「差出」徳川家康「宛」黒田長政

○三九号二番は、大坂にいるらしい京極高次が「大坂のようすをいろいろ伝えてきた」ことヘの返事です。京極が報せてきたのは「十五日の大坂情勢」ではないか、と前回に分析しました。すると気になる手紙がありまして、同じ二十六日付で堀秀治に返事を書いた四〇号。堀は領国の新潟県にいるらしく、家康は「そちらの処置も、なお堅く命じるように」と書いています。新潟と言えば上杉家の旧領地であり、今の領地「福島県の会津地方」とも接しているうえ、そもそも「堀家との軋轢」が「会津出陣の原因の一つ」であることは、豊光寺の手紙にも、それに対する直江兼続の返信にも書いてあったわけです。ゆえに家康は「万が一にも上杉が侵攻してくるやもしれないから、防備を怠るなよ」と言っているのでしょうが、それに加えて「肥前の者たちも、このときとばかり精勤するとのことなので、安心するように」と書いています。つまり「新潟県の後ろにいる石川県の前田利長も、防衛に協力するから、安心しろ」と言っているわけですね。しかし定説での利長は、すぐにも西ヘ進軍し、西軍に付いた城を攻撃していますよね?

○いつの時点で、どこまでの情報を得ていたのか。それによって行動が変化します。実のところ、「利長が堀の防衛を支援する」と書いてあるからこそ、四〇号は本物と言えそうなのです。なぜならば、京極の報告が「十五日の大坂情勢」だとした場合、それまでは「石田が謀反を起こして大坂城に戦争を仕掛ける」という噂だったのに、「石田は兵も連れずに大坂城にいる」って話に変わるわけじゃないですか。「大坂城の秀頼様を救援する」必要はなくなるんです。ただし石田は、徳川の政治に難癖をつけるわ、細川の成敗を主張するわで、そのうえ「毛利も宇喜多も承知。上杉も同意」などと言い張る始末。放置しておけば「政治的にまずい状況になりかねない」というところ。よって家康は「上洛して、石田を成敗する」と決めたのでしょうが、その際に警戒するべきは、「石田の主張どおりに話が通じているかもしれない上杉の反攻」ということになりますでしょう?

○実際に、石田と直江の事前共謀があったかどうかは、別の話です。その時点で得られた情報から、導かれるべき敵の行動予測。それが史料記述と一致するかどうかです。改めて三九号二番の文面を見ますと、家康は「こちらのことは後回しで、必ず上洛致しますので、拝顔の上で謝辞を述べたいと思います。伊那侍従殿に詳しく申しておきました」と書いていて、さながら「畿内に行けば京極とすぐに会える」と思っているようにも読める文章です。伊那侍従とは、京極高次の実弟で、長野県の伊那地方を領有する京極高知。豊臣軍団と一緒に西ヘ戻るのでしょうし、だから「彼に話してありますので、会って、聞いてください。私は最低限、こちらの処理をしてのち、すぐにも追いかけますから」という感じ。東西分裂の大決戦になって、しばらく会えないという「認識」ではなさそうですよね?

○四〇号は「石田治部少輔と大谷刑部少輔が逆心」なので「会津方面の処置を厳しく命じてのち、すぐに上洛する」の文章。四一号は「離反した二人を成敗」のため「上方衆と同道して上洛する」です。あくまで「石田と大谷の二人が問題」としているうえに、家康は「上洛する」と言っているのです。ところが四五号になると「大坂奉行衆が離反したらしいことを言ってきた」の記述です。未確定ながら、ついに「奉行衆が石田に加担」の話が伝わってきた模様。そして四一号と四五号のあいだに「ちょうど挟まる」ごとく、四二号があるわけですね。

○冒頭に「大坂のようすを早くも伝えてこられましたね」とあって、「明日、ご面倒でもお越しになってほしいと(内府が)申されております」と書いているので、山内一豊は栃木にいるようです。だとすれば「大坂のようすを伝えてきた」のは「大坂城下の山内屋敷」で、その報告を栃木で受け取った一豊が、即座に家康ヘ転送したことになります。この当時、豊臣家の家臣団は、自領で納税された年貢米を大坂に運んで換金していたはず。ゆえに米の運搬手段が必要なはずなんです。滋賀県の大津に居城がある京極は、淀川を走る川船があればいいわけですが、静岡県の掛川に居城がある山内は、紀伊半島を回ることが可能な外洋船を持っていたのではないでしょうか。つまり「山内屋敷の発した手紙」こそが「十七日の大坂情勢」を報告してきた可能性。もちろん石田が「十七日以降は大坂城下の港を押さえて、交通の遮断を画策している」ことが考えられますので、たとえ港に船があっても、出港は容易ではなかったかもしれません。それでも「隙を突いて、決死の覚悟で船を出した」のであれば、その功績は大きいと言えるでしょうね。これで家康は「大坂奉行衆も一緒になって丹後討伐を始めた」の最新情報を得たわけです。少なくとも家康は「丹後の救援」を考える必要が生じ、戦争を想定しないわけにはいかなくなったのです。その転換点となる「重要情報」をもたらしたのが「山内」ならば、その情報価値は「土佐一国」に値しませんか?

○余談ですが、日本軍は「情報軽視だった」と言われますよね。だからこそ、定説化している物語「小山評定の席で、家康にコビを売るようなパフォーマンスをしてみせて、豊臣軍団が徳川の味方になるよう、家康の手助けをしたことが大手柄だ」という解釈を、疑問もなく受け入れてしまったのでしょうかね。「情報の重視」とは、情報の価値を正しく知ることです。それによって的確な「敵の行動予測」を考えることです。歴史の結果として「山内が戦後に大きな褒賞を得た」の価値評価、「細川が豊臣軍団と別行動で栃木に残留した」の対応策、この二点を踏まえれば、四二号の記す「山内が大坂のようすを伝えてきた」は、「十七日の大坂情勢を家康が知った証拠の記述」と見て、間違いないと思うのですけど。
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