mixiユーザー(id:63255256)

2017年06月04日17:33

454 view

本史関ヶ原15「大坂側の心理変化」

○しばらくできなかったのですが、作業を再開します。本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、伏見城攻撃の「裏側」が、ようやく確認できたというところ。石田三成の戦争計画において、徳川家康を「戦争に引っ張り出す」ためには「どうしても落としておきたい」戦略ポイントだったようです。しかしその場合、今度は「別の問題」が生じるのです。石田が順調に戦争計画を進めていく過程で、大坂奉行衆も毛利輝元も、いつの間にか「家康を敵対視するようになる」ことです。

●五一号二番8月4日「返信」黒田如水「宛」吉川広家
●五二号二番8月5日「差出」毛利輝元、宇喜多秀家「宛」鍋島勝茂、毛利勝永

○吉川広家の送った「先月二十三日の手紙」を読んだ黒田如水が、「このたびは合戦にならないと思います」の返事を書いた五一号二番。文中には「日本がどのように変わろうとも、あなたと私の関係は変わるものではない」の記述。二十三日の情勢では「合戦になっていないこと」と「日本が大きく変わりかねない事態になったこと」がわかるため、「伏見城ヘの出陣命令が出て、それを吉川が報せてきたのではないか」と推測できるわけですね。もちろん「伏見城を攻める」以上は「徳川との戦争を覚悟してのこと」であるはずです。五二号二番は、伏見城を落としたときに大きな戦果をあげた鍋島勝茂と毛利勝永に対して、毛利輝元と宇喜多秀家が連名で出した「感状」です。冒頭に「一昨年来、内府は太閤様の御定めに背き、上巻の誓詞に違反して、好き勝手な政治をしてきたので、御定めを守っていくために、戦争をすることとなりました」の文章です。これは「戦果をあげた者を讃える手紙」で「徳川家に通告するものではない」のですが、はっきり「内府と戦争をすることになった」と書いてあるわけです。原文では「被及鉾楯候」です。しかも、家康が「好き勝手な政治をしてきた」ので、我らが「御定めを守っていくために」戦ったのだ、と「大坂側の主張」も記されています。家康は「幼君秀頼公の全権代行者」なのですから、秀頼公の代わりに、秀頼公がなさるべきように政治をしなければならない立場です。しかし、ここに来て大坂側は「家康のやつめ、えこひいきをするわ、自分に都合のいい政治をするわ、これでは秀頼様の代行権者と認められない」と思うに至ったわけですね。

●二一号5月7日「差出」長束、増田、中村、生駒、堀尾「宛」不明

○七月十二日には「石田の謀反の噂を慌てて江戸ヘ報せた」大坂奉行衆。それから約十日が過ぎて、二十三日には伏見城ヘの出陣を決断し、「家康を敵視する」方向に一変しました。わずかな期間での「心理変化」について、推測の鍵となる史料が一つあります。話はさかのぼって二一号です。家康が会津出陣を決めた五月のころ、豊臣家の重臣たちが連名で書いたもの。冒頭に「上方におられて、天下を静謐に命じられて、遠国に動きがあったなら、我らを派遣し、我らに役目を命じるもの」の文章。定説で言うように「会津出陣に反対した」のではなく「家康様は畿内にいらして、私らが出陣すればいい」と言っています。そして「家康が行かないほうがいい理由」をいくつか並べ、それでも家康が「どうしても自分で行く」というなら「来春の御出馬がよろしいと思います」と意見して、その理由を二つあげているのです。その一つが「雪の前に動いても、雪に閉じ込められるかもしれません」なんです。なお、家康が会津出陣で江戸城を出発したのは七月二十一日ですが、旧暦と新暦は一ヵ月以上ズレるので、現代なら八月末ごろとなります。宇都宮に集結し、それから白河へ侵攻するとして、九月半ばぐらいの戦争開始。それで「雪に閉じ込められるかも」と言うのですから「戦争が三ヵ月も続きかねない」という「認識」を示していることになるわけです。すなわち長束たちは「家康が本気で上杉を討伐する気だと思っている」ってことですよね?

○定説では「本気の会津討伐」です。それでいて「敵の本拠城だろうとも簡単に攻め落とせるぜ」の物語です。だから「長束たちの認識」に気づかないんです。家康は「軍事威嚇」に行くのであって、「戦争をしにいくのではない」と書きました。どんなに長束たちが「私らを行かせるべきだ」と言ったところで、「この程度の認識でしかない」としたら、家康が任せるはずもないってものでしょう?

○現代日本は自由主義なので「言論の自由」がありますけど、「いくら言論の自由があるとはいえ、間違ったことを言っていいわけではないのだ」と主張する人たちがいます。ネット上で「間違ったこと」を書こうものなら、すぐさま炎上です。じゃあ戦国時代はどうだったのでしょうか。当時は封建社会ですから「言論の自由」などあるはずもなくて、権力者である信長様や家康様に向かって「間違ったこと」を言おうものなら「ただでは済まされない」と思うのでしょうか。実は「そんなことはない」んです。だって当時は「身分階級社会」ですからね。現代と違って「誰でも自由に発言すること」が許されていませんから、「発言権を与えられた者だけが発言できる」システムです。その代わり「発言権を与えられた以上、たとえ間違ったことを言ったとしても許される」のです。二一号で長束たちは、「我らが意見をするのも憚りが多いのですが、必要があるときは、どうでも御前に出て、可能な限りの役目をなすように仰せられていたので、こうしました」と書いています。つまり家康が「必要なら意見をしてくれて構わない」と言って「発言許可を与えていた」ってことなんです。よって「その意見が間違っていた」としても、家康は「間違ったことを言うな」と叱りませんし、「君たちの意見はここが間違っているよ」と教えてくれることもありません。長束たちの意見が間違っていれば、聞き流して無視するだけなんです。加えて民主主義でもないのですから、為政者は「人々に政治の状況を報告し、説明し、理解を求める責任」もないんです。「武士なら自分の頭で理解しろ」で「理解できないなら黙って命令に従え」が「武家社会」です。それを踏まえて二一号を読み、その後の長束たちの行動結果と合わせれば、「意見を家康に無視されても、自分たちの理解が間違っているという自覚をしなかったんだな」と判断できるのです。長束たちは「御遠慮を加えられて(今までは)めでたく済んでいたのに、今回(上杉の問題で)は御下向になるのであれば、たとえすぐにおさまるとしても、日本に傷がついたように、下々では思うことでしょう」とか、「ただ今御下向になったなら、秀頼様を御見放しになったように、下々は思うことでしょう」とか、いかにも「私らは正しく理解できるけど、理解できない者はそう思う」という書き方をしていますが、実際は「自分たちがそう思っていた」ってことでしょうね。そうやって「心の底に不安があった」ところを「まんまと石田に突かれてしまった」ようです。だから長束たちは「会津討伐のせいで豊臣家の権威に傷がついてしまった。秀頼様は見捨てられてしまった。家康は、豊臣家のことなど何も考えてくれていなかったのだ」と思うようになってしまったのでしょう。わずかな期間に。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する