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2017年04月28日15:59

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本史関ヶ原11「毛利は敵か?」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、さらに続けて「家康の知り得た初期情報」について、確認していきます。関連の手紙史料は六通です。

●二八号7月13日「差出」宍戸元次、他「宛」永井直勝、本多正信、榊原康政
●二九号7月14日「差出」吉川広家「宛」榊原康政
●三五号7月21日「差出」細川忠興「宛」松井康之
●四一号7月27日「返信」榊原康政「宛」秋田実季
●五四号8月3日「返信」伊達政宗「宛」井伊直政、村越直吉
●六一号一番8月8日「返信」徳川家康「宛」黒田長政

○石田三成の挙兵に、上杉家の直江兼続との事前共謀が「あった説」と「なかった説」が語られています。あとの時代になって書かれた史料記述を持ち出してきて、「あった」の「なかった」のと議論したところで無駄なこと。重要なのは、リアルタイムの当事者たちが「そのときに得ていた情報の範囲で、どんな理解をしていたか」です。たとえば五四号で伊達政宗は「会津への御乱入、火急になすべきだ、と必ずお伝えくださいませ。万一にも御延期などとなれば、必ず絶対、あちこちで考え違いをして、ますます凶事が起こってくると思います」と書いたうえで、「上杉を討ち果たしてしまえば、上方のこともおさまるだろうと、実は思っております」と言っているのです。つまり「上杉の反抗も、石田の謀反も、それぞれ別個に起こったことだ」と想定して、「いくら大坂が大変だからといっても、上杉の問題を放置すると、家康様のお力を甘く見て、ほかにも離反行動をとる者が出てきかねません」と言いながら、個人的な推測としては「もしかすると上杉と石田は連携しているのかもしれない。だってタイミングがよすぎるじゃないか」と考えていることを漏らしたわけです。実際に共謀があるかないかは別として、この時点の「政宗が知りうる情報の範囲」では、「会津出陣の隙を突いた石田の挙兵」に「裏がありうる」と考えることも、べつにおかしくはないでしょう。しかし三五号で細川忠興は「おそらく内府はすぐに御上洛となるだろう」と書いています。「徳川軍の全部が反転する」とは言っていませんが、少なくとも「家康自身は上杉の対処より、大坂の対処を重視する」と推測しているのです。

○八月に入って書かれた五四号ですが、内容は「最も初期段階の情報が伝わったもの」でしかありません。三五号は二十一日付であるため、間違いなく「最も初期段階の情報が伝わったもの」です。それでいて、両者の個人的な推測に相違があるのは、伝達情報に相違があるせいです。忠興は「徳川家から情報を受けた」のではなく、江戸にいる息子のミツから「周囲に流れている情報」を知らされたようなので、きっと誤情報も含まれているでしょう。現に忠興は「石田治部と輝元が申し合わせ、敵対した」と書き、「ほかにも西へ残っている者たちは、みんな彼らに味方したそうだ」とも書いています。歴史の結果を知っていると「当然の情報が正しく届いている」ように思えるでしょうが、この時点では、大坂の毛利屋敷が十三日付で送った二八号が、ギリギリ関東に届いているくらいの状況なのです。しかも毛利家留守居の宍戸は、「安国寺が、輝元も承知の話だと言ったのですが、輝元は知らないはずです。不審です。毛利が無関係であることを、きっと御理解いただけるものと思って、お報せしました」と書いているのです。ところが江戸では、これが薮蛇となって、「石田が謀反だ。毛利も加担だ。西にいる者たちは全部が同調したらしい」という「大騒ぎ」になってしまった模様。江戸にいて、それを聞いたミツが大急ぎで、宇都宮に着陣している父へ手紙を送ったわけですね。しかし政宗には、井伊と村越が「正式な報告」を送っています。政宗の反応では、あくまで「石田と大谷が謀反」でしかなく、「大坂は重要一番の城ですから、今からでも信頼に足る者を行かせるべき」と書いていて、「徳川からも一部の部隊は送るべきですね」という程度の認識でしかないのです。

○情報の理解(リテラシー)が難しいのは、「理解者の持ち込む情報により、情報の理解が変化してしまうから」です。「家康の天下取り」と「輝元が西軍の総大将」という「歴史の知識」を持ち込んだうえで三五号を読むと、まさしく定説どおりに「家康が東西決戦に出るだろう、と忠興が推測している」という理解になります。しかし「歴史の知識」をカットすれば、三五号の内容は「石田が挙兵し、毛利が加担して、秀頼様に謀反の戦争を仕掛けた」となるのです。そして政宗は「毛利の加担」という情報を知らされていないため、「たかが石田と大谷が謀反を起こした程度のことだ。西にいる毛利たちが制圧するさ。もちろん徳川家でも、支援の部隊ぐらいは行かせるべきだろうけど」という理解なのです。どちらにしても「大坂で起こっているのは、豊臣家への謀反」なのであり、その「挙兵規模」の想定が、忠興と政宗で違っているだけなのです。

○四一号で榊原は「離反した二人を成敗するために」と書いていて、あくまで敵は「石田と大谷の二人だ」としています。つまり「秋田にも、毛利加担の話は報せていない」のです。伊達にも秋田にも、そしておそらく最上にも、なぜ「毛利加担」の情報を伝えなかったのでしょうか。その「答え」となりうるのが六一号一番です。「吉川殿からの手紙、よく読みました。書いてある内容、いちいち納得するものです。輝元とは兄弟のように話をしていましたので、不審に思っていたところ、御存じなかったことなどを伺って、満足しています」と家康。「吉川殿からの手紙」とは、吉川広家が榊原宛て二九号と「ほぼ同じ内容」を、関東にいる黒田長政宛てに送っていて、それを長政が家康に転送したと思われるものです。すなわち「安国寺は、輝元も承知の話だと言ったが、輝元は知らないはず」の弁明が、黒田を通して吉川から再び届いてきたとき、家康は「輝元が加担するなんて、おかしいと思っていたんだ。満足したよ。やはり輝元は知らない話だったんだな」と「納得した」と答えているわけです。ここからわかるのは、吉川の二九号は大坂の毛利屋敷が「すでに報告したから」と停めてしまい、江戸に届いていないだろうこと。一方で徳川の家来たちは、宍戸の二八号を誤解して「毛利の謀反を騒ぎ立てた」が、家康は「手紙の内容をよく理解」していて、「まだ確定した話ではない」と慎重に考えていたので、「徳川の重臣から各地へ送られた正式な報告」には「未確認情報」として「毛利の件は書かなかった」ということですね。さらに家康は「兄弟とも思う」の誓詞を交わした以上「輝元の離反はないと信じていた」ことになります。定説の「天下取りの戦い」では、「狡猾で嘘つきな家康」に「忠義で誠実な三成」が戦いを挑むわけですが、現実に則した本物の史料で見ていくと人物像が逆転し、「信義を重んずる家康」に対して「嘘をついてでも策をめぐらす三成」という「正反対の構図」になってくるのです。
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