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2017年04月24日16:29

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本史関ヶ原10「家康が得ていた情報」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、「三成謀反」の報せを受けた徳川家で、どのような対応になったのかを見ていきます。関連の手紙史料は六通です。

●三五号7月21日「差出」細川忠興「宛」松井康之
●三六号7月22日「返信」徳川秀忠「宛」滝川雄利
●三八号7月24日「差出」徳川家康「宛」福島正則
●四一号7月27日「返信」榊原康政「宛」秋田実季
●細川家史料8月1日「差出」細川忠興「宛」ミツ
●五四号8月3日「返信」伊達政宗「宛」井伊直政、村越直吉

○三五号で細川忠興が「内府は江戸を、今日二十一日に御出発だそうだ」と書いています。息子のミツが「家康の出陣予定日」を報せてきたからでしょう。ミツは江戸にいて、秀忠の小姓を務めていました。三六号では秀忠が「昨日二十一日に内府が出馬されて、私は十九日に江戸を出立」と書いています。つまり「三成謀反の一報」が届いてきただろう十八日前後のころ、家康も秀忠も、まだ江戸城にいたことになるのですが、二人とも予定を変えず、会津への出陣を決行したことになるわけです。「三成が謀反」の報告を信じなかったのでしょうか?

○歴史の結果として言えば、石田三成が「豊臣家に謀反を起こしたのは嘘」ですが、「挙兵したのは事実」です。そうやって「自分の知っている事実情報」で考えるから「おかしい」のであって、リアルタイムの家康の立場で見れば、まだ何もわかっていないようなもの。それでも徳川家では、一報が入ってすぐに「伊達家と最上家に報せている」ことが五四号でわかります。決して「報告を無視している」わけではないのです。もっと具体的な話が伝わってくるまでは、予定どおりの行動が粛々と進められていくってわけでしょうね。

○三六号で秀忠は、「そちらでの雑説。大坂御奉行がたと、あなたと、それぞれ話し合われて、特に問題もないとのことですので、大変によかった」と書いています。しかし三八号で家康は、宇都宮へ向けて進軍中の福島正則に呼出状を送って、「上方で雑説が流れているので、兵団はそこにおとどめになったまま、御自身だけ、こちらへおいでになってほしいのです」と書いています。二十二日の三六号では「雑説に問題はない」だったのに、二十四日の三八号で「雑説があるので、すぐに来てほしい」に変わっているわけです。この間に何かの情報が届いているようです。それを示唆するのが四一号で、秋田の秋田実季からの手紙に、徳川家の榊原康政が返事を書いたもの。もちろん秋田実季は「会津出陣に関する内容」を書いてきたのでしょうが、榊原は、手紙をもらったことの謝辞を述べるほかには「実季の書いてきた内容」に触れることをせず、「ところで」と話を変えてしまったうえで、「上方で石治少と大刑少が離反したことにつき、大坂の御袋様、ならびに三人の奉行衆、北陸の羽肥州などから、早々に内府が上洛したほうがいいとのこと、伝えてきましたので」と書いているのです。つまり大坂の増田長盛は、十二日に「徳川への一報を送った」だけでなく、同時に羽肥州(前田利長)にも報せているらしいこと。増田は一報に終わらず、次の報告も追って発したらしいこと。報せを受けた加賀の前田家からも、徳川に報告してきたこと、などがわかります。手紙史料が現存していないだけで、十二日から十四日にかけて発送された「大坂からの手紙」は、奉行以外の者たちが送ったものも含めて、いろいろあったのだと思われます。そしてそれらは全部「石田と大谷に謀反の可能性」を報告するものだったようです。問題は、十五日になると大坂衆の認識が変わること。石田が姿を見せて「細川家の不忠を言い立てる」わけですからね。だとすれば、三八号で家康が「雑説があるので、御自身だけ来てほしい」と書いたのは、「十五日以降の情報が届いたから」なのでしょうか?

○十五日の時点では、まだ「細川忠興を成敗すべきだ、と石田が主張した」の段階です。十七日になると「丹後の領地没収と、幽斎の討伐が決定」です。こうなれば家康も「丹後の救援」を考える必要が生じます。しかし「忠興の成敗を主張した」のレベルでは、家康が「戦争を考慮する」必然性がないのです。「愚かな主張を石田がした」だけで、「大坂がそれを決定したわけではない」のですからね。よって最低限「忠興の成敗が決定した」の情報が来ない限り、家康が「大坂に異議を唱える」ことにはならないはずですが、成敗の決定は「毛利輝元が大坂に到着した十七日」であるはずだし、その日には「丹後の討伐」まで決定しているのです。では、家康が三八号を書いた二十四日までに「十七日の情報」が届いているのでしょうか。もしもそうならば、福島正則たち豊臣軍団の「第一任務」は「丹後の田辺城を救援すること」となりそうです。つまり彼らが「東海道を戻り、福島の居城である尾張の清洲城に集結する」ことにはなりえないと思われるのです。現に忠興は八月一日に息子へ宛てた手紙で「丹後へ、上方から兵団が向かったとのことなので、幽斎への援軍となり、北国を通っていくことになった。めでたく任務を完了して(幽斎と)会えるだろう」と書いています。「自分の領国で、父が籠城している」のですから、忠興は「豊臣軍団と別行動で、丹後の救援に行く予定だった」わけです。この手紙は、筆跡も間違いのない原本史料であり、そこに「丹後救援も想定されていたこと」の確実な証拠記述があるのです。

○二十七日付の四一号に「内府は、こちらへ来られた上方衆と同道して上洛することを、申しておられます」とあるので、豊臣軍団が西へ戻り始めたのは二十七日前後でしょう。このとき「細川軍は別行動で、栃木に残った」ことになりますから、「二十七日までには丹後討伐の情報が来ていた」と言えそうです。それでいて、豊臣軍団は丹後の救援には行かず、東海道を戻ることに決定しているのです。なお、栃木県の小山で「小山評定が開かれた」とされているのが二十五日です。小山評定の時点で、どこまでの情報を得ていたのか。どうして豊臣軍団は戻ることになったのか。これは重要なので、もう少し考えてみましょう。
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