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2017年04月16日16:52

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本史関ヶ原8「三成のガラシャ殺害計画」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、石田三成の「恐るべき計画」の裏側を、本当にあばきます。直接に関係する手紙史料は三通です。

●三三号7月17日「差出」長束、石田、増田、前田「宛」別所吉治
●五三号8月2日「差出」長束、増田、石田、前田、毛利、宇喜多「宛」真田信之
●細川家史料9月8日「差出」細川忠興「宛」細川忠利

○細川の成敗命令を示す三三号です。普通であれば、細川忠興の居城「丹後の宮津城」に、まずは通告の使者が行きます。「忠興を成敗する。領地は没収する。すみやかに城を明け渡せ」の命令を聞いてから、留守番の家来衆は「従うか。抵抗するか」を決めるわけです。家来衆が抵抗の意思を示した場合は「討伐軍の出陣」が決定されます。大坂城下にいる妻子も成敗されます。しかしながら三三号には「各人を派兵するので、ぬかりなく軍忠せよ。末端の兵に至るまで、働きによってごほうびがあるぞ」とありまして、すでに「この時点」で討伐軍の出陣命令が出ているのです。丹後が比較的に近いとはいえ、いつの間に「これだけのやりとりをした」のでしょうね。十二日に輝元の呼出、十五日に石田の主張、そして十七日に討伐命令とは、あまりにも早すぎる話。しかも「細川家として、豊臣家にお手向かい」をしなければ、たとえ忠興が成敗されようとも、父の幽斎、妻のガラシャ、残る家来衆の「誰も殺されることはない」はずなのです。もしも忠興が「丹後の居城にいる」のであれば、家来たちも「殿様を見捨てて降参はできない」でしょうけども、当の忠興は「関東へ出陣中なので、成敗しようもない」ということも前回に書きました。そのうえで、時系列にも疑問があるという状況。

○歴史の理解が「おかしい」のは、別の内容を示す証拠史料が出てきても、物語で構築されたストーリーに捕まったままで、違う展開を考え直すことができないからですね。「家康の天下取りではない」と仮定します。よって毛利輝元も、大坂奉行衆も「徳川家と戦争をする気はない」と仮定するわけです。その場合、あくまで「豊臣家に対して不忠の忠興を成敗する」と決定したのみですが、しかし忠興は出陣中で関東にいます。だとすれば、輝元と奉行衆が次にするべきは、家康に「忠興の身柄の引渡し」を求めることのはず。では、そのとき家康は、大坂の要請に素直に応じるのでしょうか。と、このように考えたとき、一つのことに気づきます。「戦争をしたいと思っていない」はずの輝元は、家康に手紙を送って「細川の問題を相談し、細川家を徳川で引き取るなどの、解決策を提示する」のではないでしょうか。で、その手紙の返事が戻ってきて、「残念ながら徳川との交渉は決裂だ。武力解決しかない」となったのでしょうか。十七日の段階で?

○どう考えても時系列がおかしいわけです。ゆえに推測してみるわけですね。丹後の宮津城へ通告の使者が送られるように、大坂城下の細川屋敷にも同じ通告が行くはずです。そのとき「大坂屋敷の留守居衆」が抵抗して、戦闘状態になり、妻のガラシャをはじめ「全員が戦死した」ため、「丹後に討伐軍を送れ」の三三号になった可能性です。つまり「丹後で幽斎がお手向かいしたから、大坂でガラシャが成敗された」のではなく、「大坂のガラシャがお手向かいしたので、丹後の幽斎に討伐命令が出て、どうせ殺されるなら籠城して戦ったほうがマシだ」となってしまったということ。これなら「時系列の辻褄が合う」わけですが、それにしても、どうしてガラシャは「死ぬほどの抵抗をする」必要があるのでしょうね。「夫が成敗されるなら、妻としても生きてはいられない」という夫婦愛?

○忘れてはいけません。石田三成は「豊臣家に対して不忠の者を成敗する」という正義感で動いているのではありません。自らの「復権計画」です。「徳川と戦争をしたいと思っていない」のは輝元で、石田は「家康を大坂から追い出して、秀頼様の代行権を奪い取る」ためなら「戦争だって辞さない」つもり。そのために策略を練って、輝元を「軍事指揮権の代理人」に仕立てたのですから。

○救援のあてもないのに籠城した事例。その一つが「戦国時代の最後の戦争」とも言うべき島原戦争です。時の将軍「徳川家光」は「干し殺しでもいいから、味方に被害を出すな」と命じましたが、前線の司令官たちは「最悪の場合は干し殺しでもいいけど、できるなら攻め落とせ」の意味だと思い込んだのです。このときに使われたのが「仕寄」という攻城法。参陣した細川忠利が、父の忠興と交わした往復書簡が『細川家史料』の中にあって、これを読むと「仕寄の基本的なやり方」がわかります。そして五三号には、幽斎の籠城する田辺城に対して「仕寄を命じた」ことが書かれているのです。「二ノ丸まで焼き落とした。本丸に向けて仕寄を命じたので、落城は時間の問題だ」という記述。実際、仕寄を仕掛けられた城は一ヵ月と持ちませんし、本丸だけなら半月未満でも落ちるでしょう。ところが、定説でも言うように、田辺城は九月に入っても落ちていないんですね。それもそのはず、九月になって忠興が息子に送った手紙には、「丹後は無事。敵は仕寄も仕掛けず、十町も離れて包囲封鎖をしているのみ」とあるのです。輝元たちは田辺城を攻め落とす決断をして、仕寄を命じたはずなのに、現地では「その命令が届いていない」らしいのです。これが「関ヶ原合戦の裏側」なのです。

○輝元が「細川の問題を家康に相談する」手紙は、絶対に書かれたはずだと思いますが、たぶん安国寺が停めているでしょう。丹後に通告する手紙も、大谷あたりが停めているでしょう。そのうえで石田は、城下の細川屋敷に焼き討ちをかけているでしょう。「向こうが抵抗したから仕方なくやった」とか、嘘の報告をしているでしょう。「輝元に事前に相談した」とか「上杉も同意している」とかの嘘をついてまで、石田が始めた計画の中では、どうあっても「幽斎に籠城してもらって、戦争状態に持ち込みたい」のです。そのためにはガラシャに死んでもらうしかないのです。「敵を欺くには、まず味方から」で、家康を戦争に引っ張り出すためならば、どんな嘘でもつくつもり。「定説の石田三成」は、知将と言われながらも無計画さが目立ちますけど、本物は「このくらい」計画的ですよ?
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