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2017年04月04日16:46

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本史関ヶ原5「三成の目的は権力回復」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、さらに「石田三成の挙兵」について、詳細が見えてきます。関係する手紙史料は三通です。

●三一号7月15日「差出」島津惟新義弘「宛」上杉景勝
●三三号7月17日「差出」長束、石田、増田、前田「宛」別所吉治
●五三号8月2日「差出」長束、増田、石田、前田、毛利、宇喜多「宛」真田信之

○三三号は丹波(京都府)綾部の別所吉治に対して発行された命令書。「秀頼様が細川忠興を御成敗なさるので、忠義を示して出陣せよ」というものです。ついでに「家康の批判」もしています。「手柄もない細川忠興に、家康が領地を与えた」ことを問題視。「罪もない上杉景勝を、家康が討伐するからといって、細川の親族が残らず関東へ行ってしまった」ことを批判。ちなみに、定説では同じ七月十七日に書かれた「内府違いの条々」という手紙史料を本物と見ていて、これを「石田が挙兵と同時に発行した家康弾劾状」としています。これにも同様のことが書かれています。「秀頼の成人までは誰にも領地を与えない約束を破り、家康が領地を与えた」と、「罪もない上杉景勝を、太閤様の御法度を破って、家康が討伐に出た」ですね。一読すると、三三号と「内府違いの条々」は同じ批判をしているように思えるかもしれませんが、実はまったく内容が違います。三三号の意味は「未成年の秀頼では正しい判断ができないので、代行権者の家康が領地を与えるのは当然だとしても、家康に取り入って、えこひいきをしてもらう細川は許されない」「罪のない上杉を討伐するとしても、君主権を代行する家康の判断ならば従うべきだが、細川は親族一同を引き連れていき、大坂に残って奉公する者が誰もいないのは許されない」と、こういうことです。家来に対して絶対の生殺与奪権を持っているのが主君です。その権限を代行しているのが家康なんです。だから「許されないのは細川だ」と言っているのです。実際「こっちこそ本物の家康弾劾状」と見られる五三号には、はっきりと「細川忠興は兄弟が多くいる中で、一人も秀頼様へ御忠節をなすことなく、全部を連れて関東へ行ってしまった」と書いてあります。この点「内府違いの条々」では、「家康が領地を与えたこと」が問題であり、「家康が討伐に出たこと」が問題である以上、「幼君の代行権」など存在していないじゃないですか。要するに「内府違いの条々」は「家康が秀頼様をないがしろにした」と批判する偽書で、三三号は「家康のすることはともかく、細川が秀頼様をないがしろにした」と批判しているのですよ?

○そもそも石田三成に人望があるとかないとかは、微塵も関係がなくて、石田では「日本国の軍事指揮権」を行使できないのです。指揮権を持つ秀頼は、自己判断のできない幼児ですから、家康が全権代行となっています。その家康が不在のときに、代理で代行権を行使できる者がいるとすれば、毛利輝元ですね。だからこそ石田は「複雑な計略」を練って、「自分の味方となって軍事指揮権を行使してもらう存在」を大坂に呼び出したのです。最初に石田は「自分の謀反の噂」を流させました。「謀反の勃発」という事態でなければ、家康の持つ軍事指揮権を輝元へ移行させることができないからでしょう。次に石田は「私に謀反の意思などない」と弁明に行きます。「謀反ではない」のなら「軍事指揮権を必要としない」ことになり、輝元に来てもらう必要もないことになってしまいます。そこで石田の練った策略こそが三三号です。「謀反も同然のことをしているのは、細川だ。家康の立場は主君の代行権者なのであって、主君ではないのに、細川ときたら、家康が主君であるかのように取り入っている。その証拠に、豊後杵築の領地をもらったじゃないか。豊臣家に対して細川が、それに見合うだけの忠義を示してもいないのにだ。今度は関東へ親族一同で行ってしまった。大坂に残って秀頼様に奉公する者が誰もいないじゃないか。こんな不忠者は成敗すべきだ」

○「法」の理解をしていない定説は、「主君が家来を成敗する権利」という封建君主制度の土台もわかっていないようですね。たとえ理不尽な理由であったとしても、主君は家来を成敗できます。ただし「幼児の秀頼公に、権利を行使できる法的能力があれば」の話ですけどね。ゆえに「判断を下す代行権者」が必要となるわけです。前田利家が存命のころは、「日本国の統治権」を代行するのが家康で、利家が「豊臣家の主君としての権利」を代行していました。それは「秀吉の口述遺言状」で明らかです。つまり「慶長五年に利家が生きていたら、細川成敗の決定を下すのは利家だった」ということ。しかし利家の没後、その役目も家康が兼ねていて、その家康がいないとなれば、「奉行の合議では決定できない」ことになるじゃないですか。だとしても「関東にいる家康に報告して、家康に決定してもらえばいい」ところを、「そうはさせないための石田の策略」だってことなんです。家康が全権を預かっている以上「誰に領地を与えるのも家康の権限」だし、「誰を討伐するのも家康の権限」なのに、いちいち「皮肉のように」家康の批判を書いている三三号です。「家康は細川に丸めこまれているから、何を言っても無駄なのだ。しかし今は家康がいないのだし、輝元様をお呼びすればいいじゃないか。しかも輝元様には相談済みで、了解をいただいている」という石田の主張を示している三一号です。ゆえに島津が上杉へ「家康がそっちへ行って、不在なので、こっちにいる者だけで話し合ったこと」と書いていたわけですね。

○面白いのは「石田が謹慎させられていた理由」です。細川忠興が、関ヶ原合戦の三十二年後に書いた手紙の中で、理由を漏らしていたのを、史料精査の段階で書きました。要は「石田が利家に取り入っている一方で、大名たちに対しては主君であるかのように振る舞っていた」わけですね。もちろん石田本人は「そんなつもりなどなかった」のでしょう。だからこそ「同じこと」を主張しているようです。「家康こそ、主君のように振る舞っているじゃないか。細川こそ、家康に取り入っているじゃないか」というふうに。おそらく「石田としては」それが本音だったのではないでしょうかね。「自分は理不尽に失脚させられたのだ。こうなったら家康の手より権限を奪い取って、輝元様の下で復権してみせる」…。
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