mixiユーザー(id:21258650)

2021年02月08日23:53

350 view

週プロ流智美あの日あの時予想2020年総括(33)

第149戦 8月26日発売号●【予想】ストロング小林引退式(84年新日本プロレス福生市民体育館)【正解】猪木は馬場とのシングル戦を本当に望んでいたのか?プロレス夢のオールスター戦(79年日本武道館)【参考】2015年8月26日発売号はプロレス夢のオールスター戦(79年日本武道館)

【解説】ストロング小林の伝記本「怒涛の怪力」が昨年20年12月にS小林80歳の誕生日を記念して利根川亘氏主宰のチームフルスイングより部数限定にて通販発売されていますが(著者はミスター高橋)、私が子供の頃からリアルタイムで見ていた当時現役バリバリの「日本人プロレスラー」で80歳に到達したのはS小林が初。いつまでもお元気でいて欲しいと思います。

S小林は40年12月25日、東京都青梅市出身(生年月日については41年1月3日生、44年1月3日生記載の文献もあるが、いずれも誤りだった)、青梅農林高校時代は野球部で活躍、卒業後は旧国鉄に就職し、稲城駅の出札係をやっていたとのこと。この頃よりボディビルで身体を鍛え、66年に設立間もない国際プロレスに入門。

吉原功社長のアイデアで日本人初の本格的マスクマンレスラー、覆面太郎として67年7月27日、名古屋市金山体育館での仙台強(大剛鉄之介)戦でデビュー。その後素顔になりヨーロッパへ武者修行に出発、69年5月18日にはフランス・パリのエリーゼモンマルトルで豊登と組んでモンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)&イワン・ストロゴフ組を破り新設された初代IWA世界タッグ王者チームとなりました。

アメリカ修行中の71年6月19日、ミネソタ州ダルースでビル・ミラーを降しIWA世界ヘビー級王座を獲得、7月に凱旋帰国した後は国際プロレスのエースとして同王座25回の連続防衛記録を樹立、日本プロレスの馬場のインターナショナル王座の連続防衛記録21回を抜き当時の日本記録となりました。(後に馬場のPWFヘビー級38回、猪木のNWFヘビー級、ラッシャー木村の同王座27回連続防衛に抜かれる)

74年2月国際プロレスを退団してフリー宣言、3月19日、蔵前国技館で猪木のNWF世界ヘビー級王座に挑戦し29分30秒、ジャーマン・スープレックスホールドで敗れるも日本プロレス史上に残る名勝負を展開、その後「打倒・猪木」を目指しWWWF地区でヒール修行を行った後同年12月12日、蔵前国技館で猪木のNWF世界ヘビー級王座に再挑戦。28分27秒、卍固めで返り討ちに遭ってしまいました。

翌75年1月、猪木を内側から研究したいと新日本プロレスにフリー参戦、5月30日、後楽園ホールで正式に入団を発表、取締役として迎えられました。猪木、坂口征二と並ぶ「ビッグ3」と呼ばれましたが、リング上では猪木、坂口の引き立て役となり精彩を欠いてしまいました。

76年2月5日、札幌中島スポーツセンターで坂口と組み、タイガー・ジェット・シン&ブルータス・ムルンバ組を破り、猪木が返上した北米タッグ王座を獲得しましたが、77年、78年に凱旋帰国した吉田光雄(長州力)、藤波辰巳の後塵を拝するようになり、北米タッグ王座戦線からも撤退、団体の5番手に落ちてしまいました。

81年には余剰人員扱いされたか2月にメキシコ遠征に出され、8月に凱旋帰国も腰痛が悪化し81年10月16日、大分県立総合体育館で藤原喜明と組んでハルク・ホーガン&ディック・マードック組と対戦した試合(11分49秒、ホーガンが藤原を片エビ固め)を最後に腰痛が酷くなり欠場となりました。

欠場は長期化し、82年には髪の毛をスキンヘッドにして芸能活動を開始、真田広之主演の「伊賀忍法帖」に金剛坊役で出演、それに因んで芸名を「ストロング金剛」としてテレビ、映画で悪役として活躍。同時に復帰に向けてトレーニングしていましたが腰痛は回復せず、この日引退セレモニーのみ行っています。

日本プロレス史上、「ハッテンニイロク」プロレス夢のオールスター戦は1回では書ききれないほど重要なイベントになるのでしょう、本稿では5年前と違い、メインイベント終了後の猪木のマイクアピール「馬場さん、今度同じリングに上がる時は対戦する時です、やりましょう!」と馬場に対戦表明、馬場が「よし、やろう!」と応えて、オールスター戦は大団円でフィナーレを迎えています。

これは当日の進行の予定になかった猪木のアドリブで、馬場は状況から「嫌だ」とは言えず、大人の対応で「やろう!」と言わざるを得なかったものですが、このマイクに対して「やっぱり猪木は信用ならん」とオールスター戦で歩み寄った馬場と猪木が再び疎遠になっていくことになりました。

猪木が馬場に対して執拗に対戦要求を繰り返していた74年から5年経っており、馬場と猪木、全日本プロレスと新日本プロレスを取り巻く環境もかなり変わって来ていました。

初めから日本テレビの豊富な資金援助があり、外国人ルートも完備して旗揚げした全日本プロレスに対し、新日本プロレスは半年早く旗揚げしていましたが最初の一年間はノーテレビであり、73年4月に坂口征二が加入してNET(テレビ朝日)の放送がつかなかったら、潰れていたかも知れない、と言われています。

テレビ放送がついても日本テレビとNETとではテレビ局の「格」が違い、ネット局数にも大きな差があり、猪木は馬場に噛み付くことで自己アピールをして団体を発展させようという目論見がありました。

挑戦云々言っても馬場は日テレと、猪木はNETと契約があり、現実的に対戦は不可能、猪木はそれを承知の上で馬場に日本選手権を賭けて闘おうと挑発を繰り返していました。

しかし5年後の79年当時、猪木は「モハメド・アリと闘った男」としてその名前が世界中に知れ渡り、WWFとの提携も強化され、全日本プロレスと比較しても遜色ない外国人選手が参戦するようになっており、もはや41歳になっており、衰えが目立ち始めた馬場は、追いかける対象ではなかったと考えます。

※対戦成績は149戦30勝119敗、勝率201。
4 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2021年02月>
日 月 火 水 木 金 土
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28