84年6月22日、東京・永田町のキャピトル東急ホテルにおける全日本プロレスの馬場会長と新日本プロレス興行の大塚直樹社長の業務提携発表、新日本プロレス興行が全日本プロレスの興行を主催することに対して不快感を現したのが新日本プロレスの坂口征二副社長
UWFは7月23、24日の両日に後楽園ホールで無限大記念日と銘打った2DAYSの興行開催を発表していましたが、この大会には前田日明、ザ・タイガー、藤原喜明、高田伸彦、山崎一夫にラッシャー木村、剛竜馬、マッハ隼人と8人の日本人選手が参戦することに
新日本プロレスを襲った激震はまだ収まることはありませんでした。UWFは6月17日後楽園ホールで開幕する予定だった「オープニング・シリーズ第2弾」は開催中止を発表していましたが、7月23&24日の両日、後楽園ホールで「無限大記念日」の開催を発表。浦
蔵前国技館での観客暴動事件がようやく収束した翌日の84年6月22日、またも新日本プロレスを激震が襲いました。全日本プロレス会長の馬場と新日本プロレス興行社長の大塚直樹が出席して東京・赤坂のキャピタル東急ホテル「寿の間」において記者会見が行われ、
日本プロレス史上に残る暴動騒ぎとなった84年6月14日新日本プロレス蔵前国技館。あの時、乱入した長州力は最初から明らかに不快感を全身から漂わせており本人が好んでの乱入では絶対になかったと思います。1年前、ハルク・ホーガンのリング内での助走をつけ
84年新日本プロレス「84IWGP」もいよいよ大詰めとなりました。6月10日静岡産業館(ツインメッセ静岡)では公式戦では2月3日、札幌中島体育センターで藤原喜明の試合前乱入により前代未聞の試合不成立となった藤波辰巳と長州力の名勝負数え唄が実現。(懸
84年新日本プロレス「84IWGP」5月29日の千葉公園体育館から6月1日の高松市民文化センターまで坂口征二副社長がビンス・マクマホン・シニアの葬儀に出席する為渡米し欠場。ビンス・シニアの死去によりWWFとの提携も微妙なものになるのでは?とのマス
84年新日本プロレス「84IWGP」5月24日大阪府立体育会館大会メインイベントでは83年2月3日、札幌中島体育センター以来1年3か月ぶりの対戦となる正規軍vs維新軍頂上対決、猪木、藤波組vsマサ齋藤、長州力組が実現しています。前週の5月18日広島県立体
84年5月8日、港区南青山の新日本プロレス事務所において、坂口征二新日本プロレス副社長とUWFの新間寿顧問との間で会見が行われ、UWFを1シリーズのみで活躍休止し、二階堂進日本プロレスリング・コミッショナー裁定により前田日明、ラッシャー木村、
84年3月25日(現地時間)ニューヨークMSGのWWFの興行に新団体UWFに参加が予定されている前田日明(この時期にリングネームを明から本名、日本名の日明にしている)はピエール・ラファエルと新日本プロレスの藤波辰巳が保持しているWWFインターナショ
84年新日本プロレス「ビッグ・ファイト・シリーズ第1弾」は3月2日綾瀬市体育館で開幕。開幕戦から本隊の前田明(日明)、アニマル浜口、寺西勇の維新軍入りで孤立していたラッシャー木村の2人が無断欠場しています。これで前田、R木村、剛竜馬の3選手が新
84年新日本プロレス「新春黄金シリーズ」2月3日札幌中島体育センター雪まつり興行はテレビ生中継。セミ前に組まれた藤波辰巳に長州力が挑戦したWWFインターナショナル・ヘビー級選手権試合。ここで事件が発生。この日第4試合で木戸修と組んで維新軍のア
ストロング小林の引退イヤーとなった84年は日米プロレス界の大きな変革の年であり、プロレス関係の年表や歴史本の多数が84年以降ページが増えて出来事が倍になります。日本では馬場と猪木の二極対立構造が崩れ、多団体時代の幕開けが始まり、アメリカではビン
83年「サマー・ファイト・シリーズ」終了後に起きた二つの大事件。やはり「好事魔多し」といったところでしょうか。8月10日、人気絶頂だったタイガーマスクはテレビ朝日系「欽ちゃんのどこまでやるの!?」にゲスト出演予定でしたが、出演を突如としてキャン
83年5〜6月にかけて行われたIWGP決勝リーグ戦、北米(カナダ)代表として来日したディノ・ブラボーは新宿・京王プラザホテルで行われたレセプションには出席したものの「自宅に強盗が入った」との報を受けて1試合も行わずに帰国。ブラボーは93年3月に犯
ストロング小林は復帰に向けトレーニングを積んで来ましたが回復せず残念ながら43歳の若さで84年8月26日、新日本プロレス「ブラディ・ファイト・シリーズ」第3戦の福生市民体育館大会はで引退試合は行わず、引退セレモニーのみ行いました。43歳は今で言えば
ストロング金剛は83年にもう一本映画に出演しています。8月に東映系で公開された黒崎輝主演の「伊賀野カバ丸」。亜月裕作の漫画(集英社別冊マーガレット連載)の映画化でJAC(ジャパンアクションクラブ)の千葉真一が企画に加わり千葉、志穂美悦子、真田広之
82年新日本プロレス「闘魂シリーズ」最終戦、11月4日蔵前国技館大会は事前のカード変更により前売券、当日券の売上がグーンと伸びて12,000人超満員発表の大観衆を動員。スタン・ハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアント、ハルク・ホーガンがいなくても日本人同
82年9月21日新日本プロレス大阪府立体育会館に来場しメインイベントの猪木vsラッシャー木村戦で猪木を襲ったストロング小林でしたが、実際はリングサイド最前列のイスから立ち上がっただけで、場外フェンスの中には入っては来ず、前後左右に動ける状態ではな
82年6月18日蔵前国技館で開幕の「サマー・ファイト・シリーズ」から猪木が復帰。開幕戦ではスコット・マギーを僅か1分37秒、延髄斬りからの体固めで破り復帰を飾りました。アンドレとホーガンのシングルマッチは両者リングアウトの引き分け。タイガーマスク
腰痛の悪化で試合に出場することが困難になったストロング小林。治療は予想以上に長期化し、すぐのカムバックは難しくなったことから芸能活動と並行して治療をしていくことになりました。芸能活動のデビューは82年12月18日に公開された角川映画、東映配給「伊
81年12月18日東京・銀座キャピタルホテルで、東京スポーツ新聞社制定81年度のプロレス大賞の選考会が開催され、81年度のプロレス大賞が決定しました。最優秀選手賞(MVP)は猪木(新日本プロレス)がダントツの16票を獲得して2年連続6度目の受賞(74、76、77
(前項続き)では、馬場と猪木の本当の仲とは?という話になりますが、これに関しては真相は藪の中であるが、近年は「馬場と猪木は仲が良く、両団体が対立している図式でいた方が、日本プロレス界が盛り上がるから喧嘩しているように見せかけていた。その証拠に
日本プロレス史上最も盛り上がった1年だと思われる81年の日本プロレス界。81年と並んで、日本、いや世界のプロレス界における重要なターニングポイントとなった84年は前83年に起きた新日本プロレスの社内クーデターに端を発し、新日本プロレスが内部分裂。U
スタン・ハンセンの衝撃の全日本プロレス乱入、翌82年からのシリーズ参戦で、引き抜き抗争は全日本プロレスが9回裏2死満塁逆転ホームランにより、全日本プロレスが逆転大勝利。新日本プロレスのファンの方もこれに異論を向ける方は少ないのではないかと思い
81年全日本プロレス「世界最強タッグ決定リーグ戦」最終戦、12月13日蔵前国技館(テレビ収録、観衆11,500人満員発表)私はこの興行は会場で生観戦しています。5日前の12月8日、新日本プロレスの同所での興行と同数発表ながら実数では8日の新日本を下回り空席
81年全日本プロレス「世界最強タッグ決定リーグ戦」第11戦、12月8日秋田県立体育館(観衆3,700人発表)大会。(公式戦は45分1本勝負、夢のシングルマッチは30分1本勝負)メインイベントは前80年大会の最終公式戦、馬場&鶴田組とドリー・ファンク・ジュニア&
全日本プロレスとの興行戦争ですが、全日本プロレスは新日本プロレスの「第2回MSGタッグ・リーグ戦」から1週間遅い11月27日後楽園ホールから「世界最強タッグ決定リーグ戦」を開幕させました。参加チームは前年とはガラリと顔ぶれが変わりました。前年度
81年「第2回MSGタッグ・リーグ戦」第19戦は12月9日岐阜市民センター(観衆6,000人超満員発表)大会。公式戦最終日、先ずはスタン・ハンセン&ディック・マードック組のテキサス・ロングホーンズが長州力&谷津嘉章組と対戦、7分19秒、ハンセンが谷津をウ
82年新日本プロレス「第2回MSGタッグ・リーグ戦」リーグ戦天王山、第17戦は12月7日仙台・宮城県スポーツセンター(観衆6,500人超満員発表)大会。優勝決定戦進出の鍵を握る大一番の公式戦、猪木&藤波辰巳組とスタン・ハンセン&ディック・マードック組の