mixiユーザー(id:21258650)

2026年10月21日07:14

20 view

【配信連動企画】昭和プロレス年史外伝��1976年の新日本プロレス(21)

フォト

76年後半は「まだら狼」上田馬之助がアントニオ猪木に挑戦を表明。73年4月20日群馬県吉井町体育館での興行を最後に日本プロレスが崩壊。

日本プロレスの残党だった上田は他の選手と同様に日本テレビ、百田家(力道山家)の仲介で全日本プロレスのリングに上がりましたが、10月9日蔵前国技館における沖識名レフェリー引退興行における功労金の金額が原因で馬場と意見が対立。

蔵前大会を最後にアメリカへ渡ってフリーで試合をしていました。

住居を構えていたフロリダ州ペンサコーラを拠点とし試合に出場、75年1月には自ら製作した「日本選手権」のチャンピオンベルトを腰に巻いたポーズ写真をマスコミに送り付け、「猪木と馬場が日本選手権で対戦するなら自分にも参加する権利はある」とアピールしていました。

しかし上田は全日本プロレスのリングに上がる際、日本テレビとも3年契約を結んでおり、アクションは起こさず。

日本テレビ、全日本プロレスとの契約が切れた76年5月、国際プロレスにフリーとして3年ぶりに日本のマットに参戦。

前髪を金髪に染めたまだら狼として本格的な日本人ヒールレスラーとして登場、外国人側から試合に出場、76年6月11日古河市立体育館でラッシャー木村を16分35秒、カウンターの凶器攻撃でフォールしIWA世界ヘビー級王座を獲得しました。

上田のヒール人気に目を付けたのが新日本プロレスの新間寿で、新間は上田に声をかけてR木村のリターンマッチに勝ち逃げし、IWAのベルトを持ったままウチのリングに来い、ベルトは後から返上すればいい、と指示を出しました。

しかし、業界の掟として新日本へ行くなら上田はR木村に負けてベルトを置いて出て行かなければなりません。

フリーになって全日本プロレス、日本テレビとの契約が切れてから一番初めに声をかけてくれた国際プロレスの吉原功社長に不義理は出来ず、とはいえ、R木村に負けてベルトを失った上田を新日本が使う訳もなく、上田は苦渋の選択をしなければなりませんでした。

既に東スポでは76年8月5日新日本プロレスの蔵前国技館に上田が登場、元IWA世界ヘビー級王者のストロング小林が上田を迎撃する、というインタビューが紙面を飾り、上田に残された時間はありません。

7月28日銚子市体育館で上田とR木村が金網デスマッチでIWAのベルトを賭けて再戦。完全決着の金網戦でしたがレフェリーの阿部脩に何故か上田、R木村が連続して暴行を加え阿部レフェリーはダウン。

事態を見ていたサブレフェリーの前溝隆男が「金網の鍵を開けて」リングに入ろうとしたところ、両者は「金網の外に出て」乱闘を展開、収拾がつかなくなり17分48秒、没収試合の判定が下され、上田のタイトルも没収となりました。

「ビッグ・サマー・シリーズ」最終戦の7月31日越谷市体育館で上田とR木村の金網デスマッチによる王座決定戦が行われることになりました。

越谷大会に上田は左腕を三角巾で吊って登場、銚子での試合で左肩を亜脱臼したとの説明がありました。

銚子大会の後、上田は7月29日藤岡市民体育館、30日黒磯市公会堂の試合には普通に試合に出ていました。

?マークのつく上田の負傷ですが、「負傷しており試合は出来ない、代打としてスーパー・アサシン(ロジャー・スミス)を指名する」

王座決定戦は金網デスマッチでR木村とSアサシンの間で争われ、12分32秒、R木村がバックドロップからの逆エビ固めで勝利。王座返り咲きを果たしています。

上田は自分の商品価値を落とさず新日本プロレスへ移籍することにどうにか成功しました。

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2026年10月
日 月 火 水 木 金 土
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031