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2021年02月05日21:59

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週プロ流智美あの日あの時予想2020年総括(30)

第146戦 8月5日発売号●【予想】日本テレビ「激動!!テレビプロレス25年史」放送(78年)【正解】アマチュアスポーツ界の大物が相次いでプロレス入り、杉山恒治(サンダー)日本プロレス入門(65年)【参考】2015年8月5日発売号は長州力vs谷津嘉章(85年ジャパンプロレス大阪城ホール)

【解説】78年8月5日、土曜日午後8時からの60分枠で日本テレビが開局25周年記念番組「激動!!テレビプロレス25年史」を放送。戦後共に共存共栄の関係で発展してきたテレビとプロレスの深いつながりを今一度知らしめてくれました。

78年は民法最古の日本テレビが開局25周年を迎えた記念すべき年で、24時間テレビ「愛は地球を救う」がスタート、記念ドラマとして「姿三四郎」(勝野洋主演)、「西遊記」(堺正章主演)、など人気番組が放送され、後発ながら「民法の雄」として勢いのあったTBSに一矢報いた年でした。

オープニングは日本プロレス界の父、力道山と日本テレビ初代社長、読売新聞社社主、正力松太郎オーナーの歴史的握手シーンから始まり、日本初のプロレス国際試合となった力道山&木村政彦組vsベン&マイクのシャープ兄弟(54年2月19日蔵前国技館)、昭和巌流島の決闘と言われた力道山vs木村政彦の壮絶な喧嘩マッチ(同年12月22日蔵前国技館)、そして世界王者(NWA)ルー・テーズを招聘しての力道山との選手権試合2連戦(57年10月7日後楽園球場、13日大阪・扇町プール)。

プロレス版オリンピックを標榜した第1回ワールド・リーグ戦の開幕戦選手入場式(59年5月21日東京体育館)と優勝決定戦、力道山vsジェス・オルテガ(同年6月15日東京体育館)、第2回大会優勝決定戦、力道山vsレオ・ノメリーニ(60年5月13日東京体育館)。そして、馬場正平(当時22歳)、猪木寛至(同17歳)が入門。(写真のみ)

「密林王」グレート・アントニオが来日した第3回大会からは神宮外苑前絵画館広場でのアントニオのバス引きデモンストレーション(4月28日)から力道山とのインターナショナル選手権試合(61年6月2日蔵前国技館)。また、プロレスカラー放送試験的開始として力道山vsミスターX(ビル・ミラー)のインターナショナル選手権試合が少しだけカラー映像で流されました。

また61年に渋谷区に完成したリキ・スポーツパレスの開館セレモニーでは貴重な力道山の肉声を聞くことが出来ます。

史上稀に見る流血戦となった力道山vsフレッド・ブラッシーのWWA世界ヘビー級選手権試合(62年4月23日東京体育館)、その4日後の4月27日に行われた神戸市王子体育館大会のテレビ中継を見ての老人ショック死事件についても触れられています。(試合映像はなし)

力道山生前最後のテレビ中継となったザ・デストロイヤーとのインターナショナル選手権試合(63年12月2日、東京体育館)から、力道山死去を伝える模様、遺体の前に座る百田義浩(当時17歳)、光雄(同15歳)の兄弟の映像も。

力道山亡き後、新体制で日本プロレスはスタート、豊登vsデストロイヤーのWWA世界戦(65年2月26日東京体育館)はサラッと流した後、日本テレビの看板エースである馬場の時代へと突入、vsブルーノ・サンマルチノ(67年3月7日蔵前国技館)、vsディック・ザ・ブルーザー(68年2月28日東京体育館)、vsボボ・ブラジル(同年6月27日蔵前国技館)、vsフリッツ・フォン・エリック(70年3月3日愛知県体育館)vsジン・キニスキー(同年12月3日大阪府立体育会館)、いずれもインターナショナル選手権試合。全盛期の馬場の躍動感溢れるスケールの大きいファイトは今見ても圧巻です。

また、TBSが主導となった国際プロレスとの「隅田川決戦」にも触れ、馬場vsクラッシャー・リソワスキー(68年1月3日蔵前国技館)のインターナショナル選手権試合を放送。

「馬場に追いつけ、追い越せ」と躍進して来たのが「若獅子」猪木。日本テレビによるファン投票で名前が決められた新技卍固めのお披露目デモンストレーション(相手は若手時代の戸口正徳、タイガー)から第11回ワールド・リーグ戦優勝決定戦vsクリス・マルコフ(69年5月16日東京体育館)、セコンドの馬場がリングに上がり猪木優勝を祝福するシーンは貴重でした。 

ドリー・ファンク・ジュニアvs猪木のNWA世界ヘビー級選手権試合(同年12月2日、大阪府立体育会館)はNET(テレビ朝日)で中継されており、実況なしのフィルム映像を使用。BGMに使われていたのは「アリ・ブンバイエ」(マンドリル)。途中の「アリ・ブンバイエ!」のチャントはきちんと編集されており、他局のエースながらの配慮はさすが老舗日テレ。

この番組の最大の見せ場である馬場&猪木組のBI砲の活躍へvsブルーザー&クラッシャー組(69年8月13日大阪府立体育会館)、vsドリー&テリー・ファンク組のザ・ファンクス(70年8月4日、東京体育館)、vsキニスキー&ジョニー・バレンタイン組(同年12月1日東京体育館)、いずれもインターナショナル・タッグ選手権試合。

そしてBI砲分裂へ…。番組内では69年のNETの放映参入と71年12月の猪木日本プロレス除名・追放処分を繋げているが、これは編成上やむ無しか。日本テレビとNET(テレビ朝日)、読売と朝日の対立概念に取れる作りになっています。

猪木の新日本プロレス設立会見と道場開き(72年1月26日、29日)を写真で紹介、馬場のNET登場が日本プロレス放送打ち切りに繋がったと当時のスポーツ紙を掲載、面白いのは日本プロレスの放送を打ち切った日本テレビが「猪木の新日本プロレスを放送か!?」と報じている記事もあったことです。

前回書いた72年7月29日、赤坂プリンスホテルでの馬場独立会見と10月20日、東京ヒルトンホテル(現キャピトル東急ホテル)における全日本プロレス発足記念パーティーの模様を放送、来賓には小林与三次日本テレビ社長、百田敬子力道山未亡人、国際プロレスの吉原功社長の姿も。挨拶する馬場の横にはマシオ駒、大熊元司ら旗揚げ時の所属選手が並びました。

大型新人、鶴田友美(ジャンボ)の入団、全日本プロレス編では73年10月9日、蔵前国技館大会からザ・ファンクスvs馬場&鶴田組のインターナショナル・タッグ選手権試合、沖識名引退セレモニー、アントン・ヘーシンク入団挨拶を放送、馬場がジャック・ブリスコを破り日本人初のNWA世界ヘビー級王者(74年12月2日、鹿児島県立体育館)は写真のみ。

番組のエンディングはプロレス新時代の到来を告げる「入場テーマ曲に乗っての入場」として「スカイハイ」に乗って控室から出てくるミル・マスカラス(77年3月11日、日大講堂vsデストロイヤー)の入場シーンと鶴田の試合写真のカットで終了しています。

前出の日本プロレス界の長い歴史の中で真の「鳴り物入り」で入団したのは流さん的には馬場、坂口征二、鶴田の3人と定義されています。これには異論はありません。それに準ずるのが長州力、天龍源一郎で阿修羅・原、谷津嘉章、輪島大士はその下になってしまう感じがします。 

アマチュアスポーツで十分な実績を積んでいながらノンキャリアの練習生と同じく1から新弟子として65年に日本プロレスに入門したのが64年東京五輪アマレス日本代表だった杉山恒治(サンダー)と齋藤昌典(マサ)、それにラグビー日本代表の草津正武(グレート)の3選手。

当時の日本プロレス取締役だった芳の里は「本来なら契約金を積んででも欲しい人材が向こうから来てくれた」と喜びを隠しきれなかったようでしたが、実際は間に入るエージェントもおらず、契約金をせしめるような交渉術は持っていなかったと思います。

3人の中では齋藤が一番早く、明治大学卒業と同時に4月に日本プロレスに入門、6月3日、渋谷・リキスポーツパレスで本間和夫を相手にデビューしていました。

八幡製鉄に職業選手として所属していた草津が7月30日付で入門、そしてこの日杉山が入門を果たしていますが、練習生としての入門なので派手な記者会見はなし。当時のスポーツ紙が出典でした。

しかしこの3人はいずれも日本プロレスからすぐに去ってしまい、齋藤は猪木、豊登の東京プロレスヘ。杉山、草津は国際プロレスへと移籍してしまいます。草津の逸話は多々ありますが、本稿の本題からは外れてしまいますので割愛と致します。

共通して言えるのは日本プロレスが大相撲のスタイルを取り入れた社会であり、大学や社会人の体育会とは違う文化が存在すること。中卒で社会経験なく、あるいは相撲から入門している人達の集合体で、松岡巌鉄のような曲者や17歳の年下の兄弟子、米良(高千穂)明久らが合宿所にいたのでうまく行かなかった、というのは事実だったと思います。

※対戦成績は146戦30勝116敗、勝率205。
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