第144戦 7月22日発売号●【予想】猪木、長州力にフォール負け、IWGPヘビー級王座挑戦者決定リーグ戦(88年新日本プロレス札幌中島体育センター)【正解】欧州マット界と日本プロレス束の間の接点、坂口征二、吉村道明イギリス遠征(イギリス・ロンドン・クロイドン体育館)【参考】2015年7月22日発売号はカール・ゴッチvs山本小鉄(66年渋谷・リキスポーツパレス)
【解説】7月22日、というのも昭和プロレス4団体(日本プロレス、国際プロレス、新日本プロレス、全日本プロレス)にとって夏のシリーズ中であるにも関わらず意外にトピックスがない日です。王道ネタを書いている1巡目でも流さんはゴッチvs小鉄というマニア向けのネタを採り上げただけあって2巡目は厳しい週になりました。
88年8月8日、新日本プロレス横浜文化体育館での「スーパーマンデーナイト・イン・ヨコハマ」の藤波辰巳vs猪木のIWGPヘビー級選手権試合、60分フルタイムの激闘は「飛龍革命の完結」という意味合いから個人的にも思い入れは強いですが、流さんも2012年と2018年の同日発売号に2回廻しで書いており、それだけ日本プロレス史の中では重要性の高い出来事ですが、
猪木は飛龍革命の起きた88年4月22日、沖縄・那覇市奥武山体育館大会の翌日である23日、宜野湾市総合体育館大会の行われる日の朝、ジョギング中に右足甲を亀裂骨折してしまい欠場。当初発表されていた猪木とビッグバン・ベイダーの2連戦(4月27日大阪府立体育会館ノンタイトル戦、5月7日有明コロシアムIWGPヘビー級選手権試合)は藤波が代わりにベイダーと連戦。
4月27日大阪でのノンタイトル戦は場外でベイダーアタックを鉄柱に誤爆させた藤波が12分12秒、リングアウト勝ち。当時屋根がなく雨天順延で5月8日となった有明コロシアムでは猪木が返上したIWGPヘビー級王座決定戦となり16分2秒、藤波が反則勝ちで第2代王者となっています。
猪木は7月15日、後楽園ホールで開幕した「サマー・ファイト・シリーズ」で復帰。このシリーズでは猪木、長州力、マサ齋藤、ベイダー、木村健吾の5人によるIWGPヘビー級王座挑戦者決定リーグ戦が行われ、優勝者が8月8日、横浜文化体育館で王者藤波に挑戦することに。
当時45歳、持病である糖尿病の状態も思わしくなく、「限界説」が流れていた猪木でしたが、2シリーズ休んでおり体調面に不安がありました。7月21日、小樽市総合体育館のメインイベント、猪木&藤原喜明&ジョージ高野組vs長州&M齋藤&スーパー・ストロング・マシン組の何の変哲もないノーテレビの地方大会での6人タッグマッチで11分36秒、長州のリキラリアットからの体固めに猪木が痛恨のフォール負け。
猪木が弟子筋にあたるレスラーにフォール負けを喫したのは85年12月12日、仙台・宮城県スポーツセンターでのIWGPタッグ・リーグ戦優勝決定戦、猪木&坂口征二組vs藤波&木村健組の一戦で31分53秒、藤波のドラゴン・スープレックスホールド(飛龍原爆固め)に3カウントを奪われて以来。
翌7月22日、札幌中島体育センターでの長州とのリーグ戦。猪木は久しぶりにジャーマン・スープレックスホールドを出しましたが長州はカウント2でクリア。「カウント3入っただろう!」とレフェリーに抗議する猪木。しかし、ここで敵に背中を見せてしまったのが不覚でした。
ロープに飛んだ長州が背後から猪木に延髄ラリアット、この時の猪木の顔写真が多くの昭和プロレス史関係の書物に掲載されていますが、衝撃で変形しているのがわかります。さらに長州は正面からリキラリアット、すかさずフォールに入り僅か7分55秒、体固めで長州が連夜のフォール勝ち。猪木が長州に完敗したのはやはりショッキングな出来事でした。
結局、猪木は長州には負けましたが、M齋藤、ベイダー、木村健には勝ち、15点で首位。長州は猪木には勝ちM齋藤にリングアウト勝ち、ベイダーにリングアウト負け、木村健に勝って14点、M齋藤は猪木に負け、長州にリングアウト負け、ベイダーにはリングアウト勝ち、木村健に勝って9点、ベイダーは猪木に負け、長州にはリングアウト勝ち、M齋藤にリングアウト負け、木村健に勝ちでM齋藤と同じ9点、木村健は全敗の0点、猪木と長州は1点差という際どさで猪木は藤波への挑戦権を手に入れた訳であります。
日本プロレスは19年の歴史の中でヨーロッパマット界とのビジネスがほとんどなく、外国人ブッカーはグレート東郷、ミスター・モト、デューク・ケオムカらが務め、ロサンゼルスを中心に選手を招聘していました。
ヨーロッパと言えば国際プロレスとの提携関係が知られていますが、これも元を正せばTBS主導でリニューアルスタートを切った68年当時に日本プロレスと絶縁していた東郷を外国人ブッカーにし、東郷が「約束のギャラが払われない」とシリーズ途中で外国人選手を引き揚げて帰国してしまったが故、ヨーロッパに活路を求めていたもので、当時の概念としては「プロレスの本場はアメリカ」というのが常識でした。
大柄な選手が多かった日本プロレスは中軽量級が主流のヨーロッパの選手とは試合が噛み合わないだろう、という見方が強く、再三に亘り国際プロレスをいじめてきた日本プロレスも、国際のヨーロッパのブッキングルートを横取りすることはなかったです。
その日本プロレスですが1度だけ、イギリスマット界の要請で坂口征二と吉村道明がイギリスのリングで試合をしています。招聘元は国際プロレスと提携しているジョイント・プロではなく、デール・マーチンというプロモーターが現地のテームズテレビ局の要請でイギリスのジャパンデー(日本紹介の日)に招いたものでした。
70年は3月15日から大阪万博が開催されており、外国における日本への関心が高まり、このようなイベントがイギリスで催されたかと思います。
日本プロレスはムース・ショーラック、ブルート・バーナード、レジー・パークスらを招聘しての「第二次ゴールデン・シリーズ」を開催中、7月18日、鶴岡市体育館での試合に出場した坂口と吉村は夜行列車で東京に戻り、19日夕方5時45分羽田空港発の飛行機でロンドンへ。香港でロンドン行きの便に乗り換え、丸一日以上、29時間のフライト。ロンドン着は現地時間の20日午後4時30分。
翌21日朝から現地のプレスの取材を受けました。新聞6社、テレビ局が2局。ジャパンデーのイベントで日本からプロレスラーが来たということで現地でも大きな話題になり、取材の後はテームズテレビ局前の大通りでデモンストレーション。坂口と吉村は上半身裸、タイツとリングシューズという試合スタイルで表を歩き、現地の女性タレントを持ち上げて怪力ぶりを披露しています。
夜が試合で、イギリスのプロレスの聖地、ロイヤルアルバート・ホールがオペラ開催期にあたり使用できず。クロイドン体育館でプロレス興行が行われ、坂口、吉村の試合は特別ゲストということでダブルメインイベント扱い。
試合はヨーロッパスタイルの5分6ラウンド1本勝負、坂口は前69年に国際プロレスに来日したパット・ローチ(72年9月に新日本プロレスに再来日しているが、坂口の入団前であり、対戦はなし)と対戦、4ラウンド、スリーパーホールドでローチを絞め落とし快勝(流さんの同コラムによると引き分けとなっている)。吉村の方が後の試合に出て、未来日のハンス・ストライガーに反則勝ち。
22日朝8時ロンドン発の飛行機で帰国、東京到着は日本時間23日の午前9時半。移動は往復で3日、現地滞在は1日というハードスケジュールでした。
坂口、吉村のイギリスでの試合はベースボールマガジン社「プロレス&ボクシング」70年9月号にモノクログラビアと本文でレポが書かれていますが、これを見た限りでは試合が行われたのは7月21日のようです。
流さんはコラムの中で「力道山、馬場、猪木はイギリスのリングで試合することはなかった」と書かれており、そういった意味では坂口、吉村という日本プロレス所属の選手がイギリスで試合をしたのは歴史的価値はあったと思います。
※対戦成績は144戦29勝115敗、勝率201。
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