84年に入ってから「第3団体誕生」の話が急浮上しています。
81年8月に国際プロレスが活動停止して以来、日本の男子プロレス界は猪木の新日本と馬場の全日本の2団体並立時代が約2年半続いていました。
この時期色んな情報が報道されていますが、ガセやフライングもありました。ざっくりとまとめると下記のような感じになります。
�〜闇�8月の社内クーデターで新日本プロレスを退職した新間寿が、引退発表をして電撃的に新日本を退団したタイガーマスクの佐山聡と組んで、ニューヨーク・WWFのビンス・マクマホン・シニアの協力を得て新団体を旗揚げする。それに先駆けて佐山タイガーの復帰戦を3月26日MSGのリングで行う。
�▲侫献謄譽咾猟糠�水曜日午後8時からの看板番組であった「銭形平次」が3月一杯で終了、その後番組として4月11日が初回放送予定である「スポーツ・スクランブル」(仮)の枠内で第3団体を放送する。
��1月30日付の東スポに「猪木、テレビ局移籍か!?」の記事が掲載される。これによると猪木が倍賞美津子夫人(当時)と共にテレビ朝日以外のテレビ局関係者と会談を持ったとされる、しかし猪木サイドは美津子さんの仕事の関係の付き合いとこれを否定。
この他、長州力以下維新軍が新日本から独立して新団体を旗揚げする、ハルク・ホーガンのWWF世界ヘビー級王座奪取に端を発したWWFの全米制圧プロジェクトの中のターゲットに日本も含まれており、第3団体はビンスの受け皿となる、ビンスは新日本との提携を解消する予定。第3団体を放送にフジテレビだけでなくTBSも名乗りをあげている、等々。
時間を経てから形を変えて実現しているものもあり全てガセとは言えないですが…。
新日本の中でWWFのビンス・シニア、ビンスの窓口になっていたのは猪木ではなく新間でした。
この辺は外国人との渉外窓口を全て1人でやっていた馬場との違いですが、ローカルテリトリー時代の全米のプロモーター達にとっては、馬場のやり方の方が普通でした。
プロモーター稼業はファミリー・ビジネスでした。マクマホン一家、ファンク一家、ガニア一家、エリック一家、ハート一家、クロケット一家など、背広組とレスラー組の違いはあれど、プロモーター達は単独もしくは夫人同伴で商談をしていました。
60年代のアメリカのコメディテレビドラマ「奥さまは魔女」を思い起こしてみて下さい。
サマンサの夫のダーリン・スティーブンスが勤める広告代理店の社長、ラリー・テイト夫妻と良く取引先を自宅に招いて商談するシーンが度々出てきますね。
あれはまさにあの時代のアメリカの商習慣であり、馬場元子さんが外国人レスラーやプロモーターから「ミセス・ババ」として持ち上げられていたのもそれによるものかと思います。
力道山が日本航空のキャビンアテンダントだった田中敬子さんと結婚したのも外国人レスラーやプロモーターとの商談に相応しい国際感覚を持った女性と判断したからではないでしょうか。
新間のような代表権を持たないマネージャー職がアメリカのプロモーターとのネゴシエーションを行う方が稀です。
ビンス・シニア夫妻が来日すると、手厚く面倒を見ていたのは新間でした。
それもあってか、ビンス・シニアはウィリー・ギルゼンバーグ会長が78年に亡くなった後、新間をWWFの会長にしています。
これは日本向けの名ばかり会長ではなくWWFのオフィシャルパンフレットにも公式に記載され、本部として当時南青山にあった新日本の事務所の住所が載せられていました。
もし猪木がモハメド・アリと戦ったということをバックボーンに美津子さんという日本でも知名度の高い女優の奥さんを従え、テレビ朝日の放映権料を武器に世界を相手にプロレスビジネス一本に専念していたとしたら、その後のプロレス界は新日本が現在のWWE的存在になっていたのでは?と考えさせられます。
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