生きるとは、マラソンのようなものなのだと思います。
ゴールは、42.195キロではなくて、生き抜いた先にあるものだと思います。
僕の場合、自分の一生は80年位と考えています。
40歳になった時、もう折り返し点まで来たのだと考えました。
年を重ねる事、それは死が近づく事ではなく
ゴールに近づいている事だと考えています。
フルマラソンの経験は一度だけあります。
走り出した直後の自分より、10キロ、20キロ、30キロと走ってきた自分の方が頑張ってきた自分だと思います。
折り返し点を過ぎると、その後の一歩一歩がすべてゴールする為の一歩だとより強く感じる事が出来るようになりました。
完走した時の感動はなんとも言えないものがあります。
完走した人はきっとみんな、途中であきらめなくてよかったと思っていると思います。
病気や事故で80歳まで生きる事の出来なかった人のゴールは、80歳でははなく、その命が亡くなる時だったのだと思うので、全ての人のゴールが80歳であるとは思っていません。病気や事故で亡くなった人も、亡くなった時点でゴール出来たのだと思います。
だから、人の死は悲しむものだけではなく、お疲れ様でした。とおくりだすものだとも思っています。
ただ、自殺をするというのはよくないと思います。
自殺をするという事は、マラソンを途中棄権するようなものだと思います。80年を生きるマラソンというのは、人と競うものではなく、自分のペースで自分なりに走りきれば、時には歩いても、休んでも、立ち止まってもいいのだと思います。
もし、輪廻や来世というものがあるとするなら
20歳で自殺した人の次の人生は20歳から始まるのではなく、前とは違うマラソンに出場出来るのではなく、前より楽なマラソンになるのではなく、再び0から今生と同様の乗り越えないといけない課題のあるマラソンとして始まるのだと思います。
自分の人生をまっとうした人、ちゃんとゴールした人だけが
新たなステージ、新たな来世のスタート地点に立てるのだと思います。
80歳を過ぎた後の人生は、ご褒美、プレゼント、おまけと考えて、その時間(余生)を楽しんでもいいくらいに思っています。80歳を過ぎた人には、お疲れ様でしたという気持ちを込めて、国が生活費等の面倒をみてくれるような国であってもいいのだと思います。
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今日の掃除は自宅の周辺(8時)
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