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2019年06月28日00:41

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合戦考証58「命令の本質」島原の乱

○細川忠興の手紙に「信長の御代には武辺の詮索が一切なかった」の言葉。これを考察するために、信長の合戦も含めて考えてきました。信長は「味方に被害が出ないように戦う」ので、家来たちの「戦った証拠」を調べて詮索しても、無意味だったと見られるのです。そのことを忠興が知っていただけでなく、将軍の家光も知っていた模様。だからこそ「下々に手負いを出すな」と命じたのでしょう。

○だとすれば、家康もまた同様に「味方に被害を出さない戦い方をしていた」ことになりませんかね。家光が「過去の合戦経験者である老臣たち」から学んだのであれば、彼ら「徳川の老臣たち」は「信長の合戦を見た」と言うより「家康の合戦を見てきた」ことになるからです。忠興は、忠利に向けて「信長の御代」という言い方をしましたけども、徳川家中の話であるなら「権現様の御代」のはず。

○一方で忠利は、「仕寄のやり方」も「仕寄を使っての乗り込み」も、きちんと理解していなかったようです。現地での作業は、おおよそすべて「江戸からも御指図があって、必ずこうせよ、と上使の御命令です」というふうに手紙に書いていました。そのうえ「見落とした点」も多々あって、忠興から忠告を受けていたくらいです。とは言っても忠利は、これが初めての出陣ではないんです。「大坂冬の陣」では諸侯に交じって布陣していました。つまり忠利も、たった一度だけではありますが、「家康の合戦」を経験しているということなんです。

○さて。ここに「三つの条件」が提示されました。家康は「信長にならって、味方に被害が出ないように戦う」こと。忠利は「家康の合戦である大坂冬の陣を経験している」こと。しかし忠利は「仕寄のやり方に無知である」こと。これらの条件で考えますと、「冬の陣では攻撃をしていない」という結論になりません?

○家康が「城乗りをする」ならば、仕寄もなしに突撃させるようなやり方は、絶対にしないはず。「冬の陣」で仕寄をしていたなら、忠利が「原城攻め」で「やり方の理解もないままに最後は突撃しちゃう」こともないはず。よって「冬の陣では仕寄をしていない」ことになり、仕寄をしない以上は「特に攻撃もしなかった」ことになるはずで、「攻撃してないんだから、落ちるはずもない」ってこと。

○しかも細川家では「冬の陣の論功行賞」をしていないようでした。そのことに忠利が「疑問も抱いてなかった」わけです。単に包囲しただけで「まったく戦わなかった」うえに「勝敗のついた出陣でもない」のであれば、忠利が「詮索のしようもない。論功行賞もない」と思ったとしても、当然ではないのでしょうか?

○かくて「大坂冬の陣」の理解は大きく変わってしまうわけです。通説となっている話「大坂城に攻め込んだが、難攻不落の大坂城を落とすことはできなくて、ゆえに一計を案じて、和睦したフリをした」の場合ですと、家康は「実際に攻めてみるまで、難攻不落だとわからなかった」となっちゃいますし、ムダに突撃を仕掛けて「味方にボロボロ被害を出した」となっちゃいます。家康も「合戦の初心者」じゃないんですから、布陣しても攻撃せずに「包囲して、威嚇して、和睦に持ち込んで、だまして内堀まで埋めちゃって、再び攻めて、今度は簡単に落とした」でいいじゃないですか。つまり「最初から和睦を狙っていた」ってことで。

○こういう考え方ができるなら、忠興が書いていた「信じがたい内容」の記述であっても、意味が理解できるんです。

●忠興一五二一「5月1日」第五文
「一つ、有玄は兵をだいぶ解雇して、そのうえ切腹した者も二〜三人いるとのこと。これはにがにがしいことをなさいましたね。笑止に思います。おそらく以前の城乗りのときのことで、負傷や死者が多く出たために、足早に退却したという話を伝え聞いております。これは敵城の中にいるときのことですから、結果として足早になるほど、いいことだと思いますけどね。よそへは言わないことですので、この手紙は必ず火中に投じること」

○忠利の手紙で「久留米の有馬家の詮索」を読んだ忠興。忠利は「卑怯をした者の詮索」と書いてましたので、正月の「総攻撃」の話と見た忠興は「足早に退却したのが卑怯なのか。足早なほうが当然だけど」と書きました。なぜならば、主君が「逃げるな。戦え」と命じているなら「逃げた者は命令違反」ですけど、主君が「早く下がれ」と命じていれば、さっさと退却した者が正しいからです。要は、主君が「どう命じたか」が本質で、家来が「どうしたか」は従属的な問題のはずなんですよ。ゆえに忠興は「自分だったら、無理な戦闘で家来を死なせる前に、さっさと下がれと命じるんだが」ってわけ。そして信長も家康も「こういう考え方をしていた」からこそ、忠興も「こう」なのでしょう。けれど「江戸期の大名たちの理解」は違ってしまっているわけで、だから「よそでは言わない」…。

●忠利九三六「5月25日」本文は割愛
追伸「なおなお、五月一日の御返書、詳しく書いていただいたもの。すぐさま火中へ投じました」

○「一五二一番」への返書「九三五番」五月十三日付のあと、忠利は二十五日に次の手紙を書いています。本文は「父の体調不良を見舞う」内容だけですが、追伸にはこの記述。「九三五番」では「焼いた」と報告しなかったことに思いあたって、「焼きましたから」と書いたのでしょうが、手紙は保存されていたのです。
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