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2019年04月09日00:36

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合戦考証38「伝言ゲーム」島原の乱

○手紙はタイムラグが生じるもの。ゆえに理解が難しくなります。時系列を整理しておきましょう。京都を出発した忠興が、江戸へ到着したのが三月十日。熊本藩の留守居役「加々山主馬たち」が、江戸の下屋敷で忠興を出迎えました。そして加々山は「忠興様の御無事な到着」を熊本へ報せたのですが、その際に「江戸で起こっている何かの問題」も報告したのです。すると忠利が、改めて繰り返すように「私の報告に間違いはないこと」を書いてきたのが、前回に全文を逐語訳した「九二八番」三月二十三日付。次は、これを江戸で読んだ忠興の返書です。

●忠興一五一八「4月5日」
前文「三月二十三日の手紙、読みました」
「一つ、有馬落城の際、そなたから豊後御横目衆へ送った手紙(の内容)は、曽又左から写しをいただいて読みました。ただいま申し伝えてこられた内容で、こちらでの批評を、私が言っていると思われたのだと推量致します。豊後の御横目衆へ申し届けられたのと同じ(内容)を加々山主馬と松野織部のところから、私が江戸へ向かっている途中へ申し伝えてきましたが、私が思ったのは、この件を今は批評するのが余計なことと心に思いましたゆえ、江戸の私の下屋敷に着きまして、玄関も上がらずに、そのまま主馬と織部に言ったのは、この件を今はあれこれ言うなということでしたが、両人の顔色は、私がそなたの苦労したことを怪しんで、否定したと理解したように見えました」
「一つ、その次の日でしたか、失念しましたが、また両人が来まして、確かに越中が伝えてきたとおりに間違いなくと、くどくど説明しましたので、私が言いましたのは、まずよくよく皆も理解せよ。おまえたちが思うのと、私の思うところは違うのだ。そなたが三ノ丸、二ノ丸、本丸まで一人で取ったかのように言っていることが、よくないのだ。十万余の軍勢はそのあいだ何をしていたのだ。ここが私は納得できないのだ。そのうえそなたも、他家のことは存じませんと書いてこられたなら済むことを、あまりに書き過ぎている、と申したのですが、少しも納得しえないふうでしたので、私が言っているのは、私が怪しんだとしても、そなたのなされたことには、御二人の御奉行衆、そのほか大勢の御目付衆が見ておられていて、私が否定して否定できることだろうか、よく考えてみよ、と言っておきましたのは、以前では、御奉行の付いた城攻め合戦のことを、御奉行衆を差し置いて、自軍のことをじかに報告することは一切なかったからです。ただし二十七日にも攻め損なって、御手段の立て替えのようでもあるから、早い報告も構わない。すでに落城したなら、どれほど(報告が)遅くなっても問題にならないことを言いまして、もしもよそから何かを言ってきたときに(言い訳は)余計であると思いましたから、申したのですが、前記のとおり両人は少しも納得せず、私が悪しざまに言っていると理解したように見えました。その(思った)とおりに、そなたへも報せたのかと思ったので書きました。少しも私は、そなたに弁解するべき内容などありません」
「一つ、そなたの家中の負傷者と死者の目録、また、伊豆殿へ送られました都合の目録、四郎の(定めた)掟を書いたもの、どれも見ました」
「一つ、こうしましたのも、少しの話ですが、そなたの言われることに少しの相違もないものを、こちらであまりいいように言うよりは、かゆいところをかき、少しは血のめぐりもよくなるだろうと思います。考えすぎないように」
「一つ、このほかに変わりはありません」

○ちょっと読みにくい文章です。原文の言葉「其方」を、忠利を指す場合は「そなた」と訳して、加々山たちを指すときは「おまえ」としています。よって、逐語訳の「そなた」は全部、忠利のことになります。この手紙を理解するポイントは、第二文の中盤にある文章「そのうえそなたも、他家のことは存じませんと書いてこられたなら済むことを、あまりに書き過ぎている、と申したのですが」です。原文は「其上其方より、他所之儀は不存候と被書候所にて済候物を、余申過候と申候へ共」です。なにしろ忠利の「九二八番」では、これと逆のことが書いてあるからなんです。「私の手紙では、各軍のことは存じませんので、自分のことばかりを書いてきたと(忠興様が仰せだったと留守居が)申しました」で、原文は「我等状に、諸手之儀は不存候、手前之儀計申入候由申候」です。だから忠利は「自分のことばかりで申し訳ない」と思ったらしく、今度は「知っている範囲の鍋島の戦況など」を書いたのですが、それを読んだ忠興は「他家のことなど知らんでいいんだから、あんまり書くなと言ったのに」と答えているわけ。

○要は、伝言ゲームになっちゃっているんですね。「忠興が言ったこと」の意味を、留守居の加々山たちが誤解したのです。だから忠興は第二文の最後に「前記のとおり両人は少しも納得せず、私が悪しざまに言っていると理解したように見えました。その(思った)とおりに、そなたへも報せたのかと思ったので書きました」と書いたわけ。原文は「右に如申候、両人卒度も合点不参、我々わるさまに申候と心得たると見へ申候つる。其方へも申下候かと存に付、申進候」です。つまり「忠利の手紙」を読んだ忠興は、その内容を見て、「あのとき説明してやったのに、留守居たちは理解しないようだった。だから、私のほうが間違っていると思い込んで、そのとおりに報告したから、忠利がこんな手紙を書いてきたのだろうと思ったので、そうじゃないことを書きましたよ」と言っているわけ。

○重要なのは「私が悪しざまに言っている」の記述です。前回、忠利が「私の手紙と違うように理解した者たちがいることを主馬が申し伝えてきた」と書いていました。原文だと「相違之様に心得候衆」で、ここの「衆」という表現を見る限り「考え方の違う者たちがいる」の意味になりますが、実は「忠興のこと」だったんです。でも忠利は、父上様を批判できないので、あえて「衆」として、「違う考えの者たちが、なんかいるようですが」と婉曲表現にしていたわけなんです。
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