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2018年09月28日00:25

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本史関ヶ原127「古戦場地の伝承」

○「本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦」として解析したデータに、廟算とキャラ設定を付加した「フィクション」ですが、どうせ「定着している展開」にしても、フィクションであるのは同じです。ただし「定着している展開」の中で、本物と見られるリアルタイム手紙史料に「記述がない」ことは、すべて「嘘である」とも言えません。伝承されてきた内容にも、事実があるかもしれません。

○たとえば「古戦場地」の伝承です。関ヶ原町陣場野とされています。そういう伝承になったのには、何かしらの「記録」や「言い伝え」があったのかもしれません。『日本戦史関原役』などによる「定着している布陣図」では、南宮山の西側「桃配山」の付近に家康の本陣があって、先鋒の福島軍が関ヶ原町松尾、黒田長政や細川忠興らの軍が関ヶ原町陣場野に位置していたとなっています。しかも陣場野には「徳川家康最後陣地」とされる場所があり、今は公園になっています。

○中仙道を西へ進んだ関東側。桃配山から、街道を進めば松尾、街道を外れて進めば陣場野です。あくまで「攻める合戦」で考える限り、特に疑問もないでしょうね。先へ先へと「前に向かって」攻めるだけ。けれど「攻めない合戦」であれば、敵の布陣の位置に対して「対抗の位置」をとるんです。しかも「手紙史料の記述」によって、私は「大坂側の布陣」の位置を「山中」としました。つまり、街道を挟んで北に天満山、南に松尾山で、それらの奥に城山です。大坂側は、そこに「陣地構築」をして、防衛布陣をしているのですから、要するに「砦を築いていた」と思えばいいんです。すると関東側は、およそ二キロの東、東海道本線の関ヶ原駅があるあたりに布陣するでしょう。ただし「二キロほども距離があいている」ため、遠すぎて、これでは「戦闘衝突にならない」んです。では、仕掛けなければならないのは、どちらでしょうか。無論「大坂側は徹底的に防衛態勢をとっている」のですから、わざわざ陣地を出て「攻めていく」ことはありえません。その点、関東側は「丹後救援のために西へ行きたい」からこそ「関ヶ原へ進出してきた」のですから、このまま対陣を続けていても、意味ないですよね?

○すでに書いたことですが、関東側が「ここから中仙道を東へ退却する」と、大坂側は総追撃をかけてくるでしょう。南宮山の裏へ逃げる前に「敵に追いつかれてしまう」でしょう。すると「敵の追撃を防ぐ」ために殿(しんがり)を残すことになって、その者たちを犠牲にしてしまうんです。だったら関東側は、さらに前へと進んで、敵陣を攻めるほかにないんでしょうかね?「手詰まりになると攻めちゃう」のは「二世大名」だと言ったはず。百戦錬磨の「一世大名」は、こういう場合、どうするんでしょう?「攻めない合戦」の戦術がわかります?

○面白いことに、そのヒントが「陣場野」なんですよ。つまり関東側は、街道を下がるのではなく、北へ外れて「下がる」ってことなんです。それを大坂側が追撃すれば、北へ向けて追うかたちになって、その南に「松尾山の秀秋」でしょ?

○これも言ったはずですね?「正面から戦うな。敵の背中を討て」と。

○秀秋は「裏切り者」じゃないですか。だから「味方の背中を襲う」んです。定着している展開は、こんな「初歩的なこと」さえも見過ごしているんです。裏切り者に背中を見せたが最後で、背中を討たれて「おしまい」なんですよ。確定しうる事実データで「最終的に秀秋の寝返り行動で決着がついた」となるならば、大坂側は北へ向かって動いてしまって、南の松尾山にいる秀秋に「背中を見せてしまった」ということなんです。かつて私が「合戦のシミュレーション解析」をして、基本戦術を理解したとき、関ヶ原合戦の「この点」については、すぐに気がつきました。布陣図がおかしい、展開がおかしい、何かが根本的に違っている。

●一〇九号9月15日「差出」徳川家康「宛」伊達政宗

○桃配山から陣場野へ「前に向かって」直線的に見ていると、「その先に敵がいる。その先は笹尾山だ」となって、ゆえに「笹尾山に石田が布陣」という解釈になるんです。陣場野から北西方向「笹尾山へ向かって攻めた」という解釈になるんです。けれど一〇九号には「於濃州山中及一戦」の記述。『日本戦史関原役』の翻刻史料を読んで、この記述を見つけたとき、私は驚きましたよ。これなら関東側の行動は、関ヶ原駅のあたりから、西の天満山に向けて仕掛けたのち、街道を外れて北東方向へ下がったことになるんです。それを追撃した途端、背後の秀秋です。すなわち関東側は「秀秋が背中を突いて、決着をつけられる」ようにするために、ちゃっかり「お膳立て」をしてあげているってわけ。もちろん「おいしい瞬間を見逃す秀秋じゃない」ってもので、一気に背中を突いての大勝利。

○前回に「定着している展開」を作り替えて、「西軍が前進、東軍が後退」は同じでも「優勢だったのは東軍だ」としました。その場合「東軍の後退」は「追われて逃げている」のではなく「わざと退却して、追撃を誘った」意味ですが、廟算してみるまでもないことで、退却する方角を「ちょっと変えた」ら「追撃を誘った意味」になっちゃうんです。つまり関東側は「松尾山にいる秀秋」を前提にして「行動していた」ということ。そうは言っても秀秋は本来「大坂側の者」ですからね。絶対に「味方してくれる」という保障があるはずもないですよね?

○というわけで、ここからが本当の廟算です。すでに「決戦前日までの状況」は解読を終えていて、秀秋は「石田のとった行動を見て、石田に疑念を抱いて、石田を見限っている」ことを書いてきました。そこから決戦当日までの「秀秋の行動」と、さらに「関東側の行動」を確認してみようと思います。上記の基本的な展開に「廟算値が一致」すれば、関ヶ原合戦は「これで間違いない」と思います。
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