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2018年08月23日00:21

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本史関ヶ原118「キャラ設定」

○「本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦」で解析してきたデータに、創作による廟算値も一致してきました。その結果、大坂側の「戦術想定」には「いくつかの問題点」があったことも見えてきたようです。

○吉川が想定していた後巻きは、「敵が稲荷山を取りにきた場合」と「こちらが退却したときに敵が追撃してきた場合」を二重に想定し、南宮山の裏に「後詰めを配置していた」わけですね。無論「退却しても追撃してこなかった場合」も考えて、敵のほうが「追撃を誘う手段」を使えないように「山中に布陣して、行く手を塞ぐ」という「次の展開」も想定していたでしょう。問題なのは「行動展開を廟算できる」としても、実際に「誰が、どこに配置される」のかは、推測の域を出ないことです。どのみち「創作作業」にすぎませんので、史料根拠の有無に関係なく、およその配置を設定してみた次第です。すると、南宮山の裏での後詰めは、石田と小西になりそうで、しかし石田と小西は「決戦当日に山中に布陣していた」ことになって、そこの「データのズレ」から「秀秋の行動」が浮かび上がってきました。途端に今度は「石田の行動」に疑問が生じてきたわけです。

○この点を整理しましょう。吉川は「敵が稲荷山を取りにきたとき、裏から応戦に出て、平地で戦闘し、敵を叩き反す」役割を、石田に任せたことになります。しかし石田は「平地で戦闘の駆け引きをする」という「古い時代の戦術」を「実見したこともなければ、実戦の経験もない」という推定です。それを「一・五世大名」としてみました。そうだとすれば、石田にとって「割り振られた役割」は重荷なわけです。だからと言って「味方が南宮山の向こうへ出ている最中に、どうして勝手に陣を下げたのか?」という点は、当然の疑問となりますよね?

○さて。このへんでキャラ設定も加えましょうかね。「石田は優秀だった」というのは、よく言われる話ですけど、そういうキャラ設定を「先にありき」で創作するものを「キャラクターノベルズ」と言います。どんな展開であれ、最終的には「なぜ、そういう行動をとったのか」という人物像につながりますが、「キャラ設定ありき」の場合は「こういうキャラだから、こういうことをするのだ」ってふうに「キャラが展開を決めてしまう」んです。べつに娯楽の作品は「それでもいい」のですが、廟算は「キャラ設定ありき」ではできません。最初は同等の条件にするべきだからです。つまり「合戦に関係する人物」を、すべて「充分に合戦能力のある一世大名クラス」と設定する必要性。その際「個々のパーソナリティー」など「あるほうが邪魔」なんです。そのうえで、データが示す条件から、たとえば「前田利長は二世大名レベルと見るべきだ」とか「豊臣軍団は宇喜多秀家を一世大名レベルに見ていない可能性」とか、個別の判断をしていくんです。

○要するに私は、世間で言うように「石田は優秀だ」と思って、優秀な人物と見てきたわけではないんです。初期設定として「一世大名」にしておいただけ。すると「岐阜戦からの展開」が矛盾なくつながりましたので、石田は相応の実戦経験があって、合戦の理解があると見ていいのだろうと考えていました。ところがここにきて「一・五世大名なのか?」という可能性。だって充分な経験と、実力を持っているなら「南宮山の裏での後詰め」など、特に難しい役割ではないはずだからです。かえって豊臣軍団のほうが「可能性をいろいろ考慮できてしまう」ために、安易な攻勢に出られなくなるんです。しかし石田は「後詰めを勝手にやめた」と見られます。途端に二つの疑問点。そもそも吉川は「鉄砲時代の防御に徹する合戦しか知らず、弓矢時代からある戦闘駆け引きはできない者」に、どうしてこの役割を任せたのか。そして石田は、その役割をなぜ途中でやめたのか。

○ここで「石田の行動理解」のために「性格設定」を付与するわけですね。石田が「無能な人物ではない」ことぐらい、経歴を見ればわかろうというもの。だとしても「なんでも知っていて、なんでもできるほど、完璧な優秀さ」など、現実的にあるはずもないじゃないですか。しかも石田は、すでに「一・五世大名」の可能性が生じていまして、「知らないこと」も「できないこと」もあると見るべきなわけですよ。しかし石田が「知らないことを知らないと言えない」し「できないことをできないと認められない」性格だったとしたら、どうします?

○私自身も若いころは、そういう傾向がありましたねえ。そういう私自身の経験に基づいて言えば、そこそこ優秀で、周囲からも「優秀だ」と思われていて、自分でも「自分を優秀だと思っている」けども、実際には「中途半端な能力しかない者」が、自分の力不足をなかなか認められないもんです。本当の知識が蓄積されてくれば「知らないものは知らない」と平気で言えますし、努力して身につけた技術に自信を持てば「できないものはできない」と簡単に言えてしまいますけどね。過去の作品で書いた「間違ったこと」も、「あのころは間違えてたな」と認めることも平気です。だって、そういう試行錯誤があるからこそ、本当の解答にたどりつくんです。間違えたことでさえ、研究過程の大事な足跡ってもんです。

○中国の古典に『易経』という思想書があります。これを読みますと、人間性なんて「二千年の昔から基本的に変わってないんだな」と思えます。『孫子』が想定している「敵将」にしても、いつの時代でも変わらないような「ありがちな人間性」でしかないんですよ。だから「日本の戦国時代」にも通用したんです。しかしフィクションは、キャラを差別化するために「特異さ」を設定する傾向があります。そのほうが個々のキャラが際立って「区別しやすい」からですね。そのせいで、天才的な知将とか、一騎当千の勇将とか、かえって「同じパターン」になりがちなんですよね。けれど『孫子』は反対に「無奇勝、無智名、無勇功」と言っているんです。「奇抜な勝利はなく、知将もいないし、勇将もいない」って。

○というわけで、この先は、ますます「創作」となりますね。残る疑問点を詰めていくためには、個々のキャラに「行動の背景となるペルソナ」を付与して考えることになりますからね。無論、本来の「キャラ設定」をするのであって「キャラ付け」ではないです。「キャラ付け」はキャラクターノベルズのやることです。
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