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2018年07月30日00:35

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本史関ヶ原112「中仙道があいている?」

○「本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦」でしたけど、今は創作の作業中です。あえて架空の展開を創作してみることによって、次第に史料記述と一致する状況が見えてきました。結果として「関東側が中仙道で関ヶ原へ進出した」のは、やはり「吉川が中仙道をあけていたから」だったようです。稲荷山に兵を配置して「中仙道を塞いでおく」のが常法ではありますけど、吉川の想定では、下がる豊臣軍団を追撃して「勝敗をつける」つもりがないわけです。だったら最前線に出す兵力も「必要範囲の最低限」でいいわけです。これぞ『孫子』竹簡本が言う「守ればすなわち余りあり、攻むればすなわち足らず」ですね。稲荷山に兵を置かなければ、その分を後方に温存できて、万一「豊臣軍団に余力があって、越前に戦線を拡大する」ことになったとしても、後巻きを送ることができるから。

○豊臣軍団の先陣部隊を福島軍が務めているという仮定を続けます。南宮山の後巻きが「少ない」のを見たうえに、本来なら兵を置くはずの稲荷山が「あいている」という状況。これを福島正則だったら「どう判断する」でしょうね?

○中仙道が塞がれていたら、豊臣軍団は「引く」しかないわけです。引いても敵が追撃してこないなら、別の手段を考えるしかないわけです。ところが少数兵力でしかない敵は「追撃する気がない」ってことになりますし、それでいて「中仙道を塞いでいない」ってわけ。だとすれば「敵は戦線を下げるつもりだ」と考えるべきでしょうね。じゃあ「下がるところを追撃するか?」と言えば、すでに廟算したとおりで、敵は「南宮山の裏で迎撃を狙う」と考えるべき。じゃあ「追撃をしないか?」と言えば、これも廟算どおりで、大垣城の降参後に中仙道を進んでも、敵は山中に布陣して「行く手を塞いでいる」でしょう。そこまで行ってから下がろうとすれば、総追撃を受けるだけのこと。よって「吉川が稲荷山をあけている」場合でも、豊臣軍団は「後巻きと戦うしかない」点では同じだってことなんです。ただし、今までとは条件が一つ違います。丹後救援のために「先へ行きたい」豊臣軍団ですが、中仙道があいているので、先へ行くことも可能です。じゃあ「結果的に関ヶ原へ出た」豊臣軍団なのですから、中仙道を進みますか?

○確定事実で言えば「豊臣軍団は中仙道を進んでいない」わけですよ。だって十二日の時点では「後巻きと戦うつもりだ」と手紙史料にあったわけじゃないですか。結果的に関ヶ原へ出たのは「結果論」というもの。道があいているからといって、先へ進むのは愚か者のすること。道があいているのなら、その道を確保することが先決です。すなわち「せっかく敵が稲荷山をあけた」のですから、豊臣軍団が「稲荷山を押さえてしまう」べきなんですよ。赤坂の部隊を増員して、彼らが中仙道を進んで「稲荷山に布陣する」んです。途端に「南宮山の吉川たち」は、退路を絶たれてしまうじゃないですか。そしたら吉川は「稲荷山に陣取った豊臣軍団」へ攻めかけますか?「その必要はない」ってことに気がつきます?

○合戦は、囲碁や将棋と違って、交互に「手を打つ」必要がないですね?「敵に陣取られてから攻撃する」必要はないです。豊臣軍団が「稲荷山を取りにきた」のであれば、「取るため」に進軍してきたところを攻撃すればいいんです。城の中や、高台の陣地にいる敵を「わざわざ攻撃する」のが愚将ってもので、せっかく「敵が平地に出てきてくれる」ってわけですから、そのときに攻撃すればいいんです。すなわち南宮山の裏に兵を配置していれば、べつに「稲荷山にいる必要はない」ってこと。要は「松尾山の東の尾根」に布陣することで、裏の道を塞ぐことができるうえ、敵が稲荷山を取りにくれば対応できるのだし、吉川たちが退却して「追撃を誘う」際の支援もできるわけ。私だったら、そう考えますけど?

○もちろんのこと、このくらいは福島も気がつくでしょうね。少数の吉川が「退却した」ときに、こちらが追撃した場合、南宮山の裏に大軍がいて、迎撃されてしまうだろうってことぐらい。ゆえに「稲荷山があいている」からといって、安易に「取りにいく」ことはできないし、現に豊臣軍団は「やっていない」わけです。ただし、言えることが一つありますね。南宮山の裏に後詰めがいるならば、こちらが稲荷山を取りにいったとき、敵のほうでも「取らせまい」と出てくるってことですから、ここで「戦闘に持ち込むチャンスが生じる」わけでしょう?

○勝つべきは関東側にあり。戦いたいのは豊臣軍団のほう。だからと言って「敵陣に向けて闇雲に攻めかかる」ようなことをしても敗けるだけ。ところが敵は、稲荷山をあけて「戦う気がある」と示してくれたんです。ただし「江戸を出陣するとき」の家康が、「私が到着するまで無茶をするな」と釘を差していましたよね?「戦闘に持ち込むチャンス」がありながら、豊臣軍団が「家康の到着まで、仕掛けないで待っていた」のは、それがためでしょう。たとえ「戦うチャンス」があっても、ヘタに仕掛ければ、敗北の憂き目に遭うからです。なかなか慎重な福島です。加えて、もう一つ「大事なこと」に気づきますか?「少なくとも吉川は、十二日から十五日までの四日間、撤収しなかった」ということ。少数兵力でしかないし、退路に兵も置かないし、まるで「すぐにも撤収する」と思わせるような後巻きをしていながら、平然と対陣を継続。なかなか吉川も大胆ですよね?

○このような戦場の状況を、清洲に到着した家康が詳しく聞いたとき、どんな戦術判断をするのだろうかと思えば、とても興味深いのですけども、残念ながら関東側は、結果的に「後巻きとの戦闘」をしませんでした。なぜなら、このシチュエーションの中に「とんでもない矛盾」が隠れていたからなんです。ここまで手間をかけて、廟算を重ねてきたからこそ、私はそれに気づいてしまいましたよ?

○矛盾に気づきますでしょうか?「結果的に関東側は関ヶ原へ出た」んでしょう?
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