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2018年03月02日03:20

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本史関ヶ原75「犬山降参の日は?」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、岐阜城の降参後に、犬山城が降参退去。それまでに何日を要したのか、この点をもう少し詰めてみます。

●家康文書9月3日「返信」徳川家康「宛」加藤貞泰、竹中重門
●家康文書9月5日「返信」徳川家康「宛」加藤貞泰

○加藤貞泰、稲葉貞通、関一政、竹中重門。この四名は「犬山城主の石川貞清を助けて、犬山で籠城していた」とされてきた人物です。特に加藤は「岐阜城が落ちると、石川を説得して、犬山城を開城させた」と言われてきました。九月五日付の手紙で家康が「殊犬山之儀、其方以才覚、早々相済候事、令満足候」と書いているからですね。つまり「犬山のこと、おまえの才覚で、早々に終わらせたのは、満足だ」というわけです。でも「その解釈」であれば、「石川は戦う気だったのに、加藤が説得して、やめさせた」の意味になるんじゃないですか?

○「石川も以前から徳川に通じていた」という解釈は、そういう手紙があるからですが、それは偽造史料だと指摘しました。もしも本物ならば、石川は「すっかり戦う気だったのに、加藤に説得されて、諦めると、途端に態度を変えて、まるで以前から味方をするつもりだったような手紙を、平気で家康に送った」となります。すると加藤が「実は私が説得したからですよ」と手柄を報告したってわけ。さもしい話ですね。けれど「加藤が説得して、石川の戦闘をやめさせる」のに、そもそも「加藤が犬山の籠城に参加している」必要があるんですかね?

○すでに書きましたけど、「岐阜城にいたら、殺されている。秀信だけが、池田のおかげで特別に許されたのだから」という解釈をすると、加藤が生きているのは「犬山城にいたからだ」と解釈するしかなくなるわけですよ。手紙に書いてあるのは「加藤が石川を説得して、抵抗を終わらせた」の意味だけで、「一緒に中にいた」とはどこにも書いていないのに。しかも加藤が「外にいて、説得に行った」のなら、石川の身の安全を「責任を持って保証する立場」ですから、「私の責任で説得しましたので、石川のことはお願いします」と家康に報告するのも当然でしょう?「実は石川のやつ、戦う気だったんです。それを私がやめさせたんですよ」と手柄顔で告げ口するのとは、解釈が違ってくるじゃないですか。

○岐阜城から近い「黒野城主」とされる加藤は、秀信の指揮下で「岐阜籠城」に参加していたとします。竹中は西の不破郡に領地があったようで、やはり「岐阜籠城」に参加でしょうか。すると二人に宛てた手紙があるわけです。「前廉首尾無相違忠節之条」の文章を、「以前から徳川に通じていて、徳川に忠節を誓う」と読むから「裏切り者」になるわけで、「織田の指揮権に従っていましたが、それも解かれたので、以前のように豊臣家への忠節を示します」と読むことも可能です。大坂の側も、関東の側も、かたちの上では「豊臣家に忠節せよ」と言っているはずなんです。加藤は親の代から「秀吉の家来」だったと見られる者で、織田家の与力でしょうけども、織田家の指揮権が解かれたら、豊臣家の家来の立場で「秀頼様へ忠節」が当然です。もっとも「輝元と家康の、どちらを正当な秀頼様の代行権者と考えるか」は別問題でしょうね。「輝元のほうだと思う者」は、岐阜城の降参後も豊臣軍団に合流しなかったのかもしれません。加藤などは「家康のほうだと思っていたが、上位権者の秀信が輝元のほうだと決めたから、仕方なく従っていた」のかもしれません。しかし言葉の上では、どのみち「豊臣家へ忠節」になるはずだと思いますけどね。なお、稲葉は北部の郡上郡。関は東部の土岐郡です。加藤と竹中は「領地が保証された」だけのようですが、稲葉と関は戦後に褒賞を得ているようなので、居城にいて「出陣待機」だったのかも。岐阜城にいて、まがりなりにも敵対した加藤と竹中は、稲葉や関と扱いが違うのかも。

○このへんになると合戦分析の範囲を越えてしまいますね。竹中と稲葉の場合、元は「織田家の家来」だった者で、そこが加藤と違います。豊臣秀勝(関白秀次の弟)が岐阜城主だったころに、豊臣家の家来に変わっているのかどうか、史料も持っていないので、わかりませんけどね。これこそ歴史学の領分ですよ。(ちなみに竹中重門の父「半兵衛重治」は「秀吉の軍師」という話が定着していますけど、秀吉の家来になったことはないはずです。格上の武将を与力にもらった秀吉は、半兵衛を「客将扱い」していたみたいですよ、手紙史料を読む限りでは)

○ともあれ、このように理解すれば、九月三日付の加藤と竹中の両名宛ても、本物と見ていいわけです。家康は冒頭に「両通之書状令披見候」と書いています。つまり「加藤と竹中から、別々に手紙が来た」のですが、返事はまとめて一通なんですよ。続く文章は「然者前廉首尾無相違忠節之条、感悦之至候」で、いかにも「あなたたちの忠節に感激しています」と言っているようでいて、扱いが「おざなり」ってこと。「感悦之至」も建前の定型句みたいなもんでしょうか。続いて五日付の加藤宛て。冒頭が「切々被入念書状祝着之至候」ですので、加藤から二通めが来ているわけでしょうね。そして内容が「犬山之儀」です。加藤の一通めは「自分のこと」で、二通めは「犬山のこと」だと考えれば、二通の手紙を続けて書いたことの整合性もつきます。すると、最初の返事が三日付で、神奈川県の小田原で書いたもの。次が五日付で、静岡県の清見寺で書いたもの。手紙の届く日数から逆算しますと、犬山城の降参は九月一日ぐらいかも。正確に割り出すことは無理ってもんですが、八月中は戦後処理をしていた感じになってきますね。

○岐阜城の降参は、遅くとも八月二十六日。家康の出陣から考える限り、それ以上に遅くなることはないでしょう。加藤の一通めを「家康は九月三日に小田原で受け取っている」のですから、加藤は「秀信が降参した日、すぐに書いた」というわけでもなさそうですが、これも判断が難しいところです。(ところで慶長五年の八月は、大の月、小の月、どちらでしょうか。小の月っぽいんですが、確認できる史料がありません。歴史学者でない身では、この点も常に悩まされるところ。信長の合戦分析をしたときは『言継卿記』があったので、大小の確認は簡単で、とても助かりましたが)
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