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2017年09月25日02:03

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本史関ヶ原37「清正は中津にいた?」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、このへんで九州の情勢についても確認しておきます。八月の半ばまでで、九州関係の手紙は六通です。

●三二号7月15日「差出」毛利輝元「宛」加藤清正
●三五号7月21日「差出」細川忠興「宛」松井康之
●五一号二番8月4日「返信」黒田如水「宛」吉川広家
●五五号一番8月4日「差出」毛利輝元、宇喜多秀家「宛」松井康之
●五五号二番8月4日「差出」長束、石田、増田、前田「宛」松井康之
●六七号8月14日「差出」増田長盛「宛」松井康之

○大坂の三奉行から「すぐにおいでください」の呼出状。広島で受け取った毛利輝元が、熊本にいる加藤清正へ「あなたも早く御上洛を」と報せた三二号が七月十五日付。この手紙が清正のもとへ届いたのは、いつごろなのでしょうか。

○大分県の中津にいる黒田如水へ、大坂の吉川広家から手紙が来て、如水が返事を書いた五一号二番は八月四日付。前文に「先月二十三日のお手紙、昨日拝見」とあるので、大坂から中津へ手紙が届くのに「十日」もかかっていることになります。ところが、大分県の杵築にいる松井康之へ、石田を加えた三奉行が「領地を明け渡しなさい」と命じた五五号二番は八月四日付。それを松井が拒否したようで、今度は増田長盛が単独で「命令に従いなさい」と説得する六七号は八月十四日付です。大坂と杵築を「使者は十日で往復できる」ことになるのです。

○確実な手紙で確認してみましょう。関ヶ原合戦の当時、丹後が領地だった細川家は、戦後の褒賞で「豊前の一国、豊後で十一万石」をもらいました。よって大坂夏の陣のとき、細川忠興は豊前(福岡県)小倉の居城にいて、息子の忠利は豊前(大分県)中津の居城にいたのです。出陣命令が出たものの、船の用意が間に合わず、忠興は「私だけでも先に行くから、おまえは全軍を率いて、あとから来なさい」と忠利に指示を出しています。これは『細川家史料』が収録する原本史料です。この手紙の中で忠興は「二十九日か三十日には船を出す予定」と書いていて、その後の手紙では「三日に兵庫へ到着した」と記しています。現代の神戸市、和田岬のあたりに船を着けたようです。この点から見て、大坂から中津や杵築へ行くのに「船で五日」は、可能な日程だと言えそうです。吉川の手紙が「十日もかかった」のには、何か別の事情があったのだろうと思われます。

●一一九号9月23日「返信」加藤清正「宛」黒田如水

○こちらは、宇土城に包囲布陣をかけている加藤清正へ、安岐城に包囲布陣をかけている黒田如水から手紙が来て、清正が返事を書いたもの。前文に「去る十九日の御手紙、今日二十三日の日の出ごろ、宇土に届いて拝見致しました」と書いてあります。大分県の国東半島から、熊本県宇土市へ、九州の中央部を横断して手紙が届くのに、三日以上かかっていることになります。これらのことから判断しますと、七月十五日に広島を出た「輝元の手紙」三二号は、大分県内の港へ着くまで二日か三日。そこから陸路で熊本へ行くのに三日か四日。およそ七日もあれば到着している可能性。七月二十二日前後に届いていたかもしれません。

○ところで。なぜ輝元は、清正に上洛を求めたのでしょうか。なにしろ十五日の時点で、輝元は「何も知らない」のですからね。船で明石へ出て、そこで安国寺から「石田の計略に基づく話」すなわち「細川成敗」を聞かされるまで、「決定権者の家康が不在なので、何か政治的な決定をしなければならないようだ」と思っていたのみです。現に三二号で輝元は「よくわからないが、秀頼様への忠節ならば、行くしかない。あなたも早く御上洛を」と書いているわけです。さらに言えば、輝元は大老の一人であり、家康と「兄弟と思って協力する」の誓詞を交わしていた立場です。家康が畿内を離れる以上、万一の場合の代理人に「輝元を事前に指名していた可能性」も、危機管理としては当然のこと。だから「輝元が大坂に呼ばれる」のはいいとして、そのとき輝元が「清正を呼ぶ」理由がわかりません。「必然的理由があった」と仮定してみても、今度は別の疑問です。輝元でさえ「事情がわからない」で書いている手紙を、清正が読んで「事情がわかる」はずもないわけです。それでも輝元は「秀頼様への忠節ならば行くしかない」と言っています。なのに清正は上洛しなかったわけなんです。「秀吉子飼いの筆頭格」加藤清正ともあろう者が、「秀頼様への忠節」と言われても無視ですか?

○蛇足ですけどね。「最初から全面戦争だ」で「誰が西軍で、誰が東軍なのか、互いにみんなわかっている」の前提ならば、「秀頼様への忠節とかって言葉を輝元が使ってみせても、それで騙されるような清正じゃない」ってふうに「解釈できちゃう」んですね。清正を呼んだ理由も「東西大決戦をするため、出陣を要請した」と「解釈しちゃえば済む」んです。しかし実際の史料記述に基づけば、決して輝元も「清正に出陣を要請した」わけではありません。あくまで政治的処置のために「私は急いで大坂へ行く」であり、清正に「あなたも来たほうがいい」と報せたのみ。そして清正は「会津出陣で家康が不在。東海地方の豊臣軍団も出陣中」であるのを知っていたはずじゃないですか。ならば当然「事情のわからない手紙」を読んで、大坂のことが不安になったはずなのに、それでも「すぐさま熊本を出発した」わけではない以上、一つの推測が必要なようです。旧暦で七月中旬、新暦なら八月下旬。九州北部に台風が来るような季節。輝元の出した三二号は、海が荒れて九州へ渡海できず、通常の日数を大幅に越えて、二十七日ごろに熊本へ届いた、という可能性です。それから清正が慌てて出発した、と仮定してみましょう。「発信から十日以上も経過しているし、事情もよくわからないけど、秀頼様への忠節なのだし、輝元だってすぐに動いたのだから、今からでも行くべきだ」と考えたとしましょう。それが「清正らしい」ってものですからね。で、大坂へ行くなら、どうせ大分県あたりの港を使いますので、中津は通り道のようなもの。如水のもとへ「相談に寄った」としてみましょう。七月末に熊本を出たなら、八月三日ごろに中津へ到着で、その日に如水は「吉川の手紙」を受け取っているわけですよ。やはり「届くのに時間のかかった」手紙です。そして翌四日付、如水の返事五一号二番に「加藤主計と話し合った」の記述があるんです。

○吉川に宛てて、「豊前のことは、少しも御気遣いをなさいませんように。加藤主計と話し合ったので、どこから仕掛けがあったとしても、ひと合戦で済むでしょう」と書いた如水。この文意を理解することが、如水と清正の行動を確定するうえで、とても重要な意味を持つようです。次はこれを詰めていこうと思います。
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