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2016年06月23日23:23

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関ヶ原史料「遠征軍進発」島津討伐一三五号

○島津討伐の遠征軍が、鹿児島に向けて出発したようです。家康が黒田如水に宛てた手紙。十一月十二日付。

●手紙一三五号の一番「たびたびの御報告、その内容を理解しました。柳川のことは、人質を受け取り、立花を引き連れて薩摩方面へ出て、加主計、鍋島加賀守と相談し、働かれるとのこと。寒い時期になりますから、まず年内はそこに滞在なさっているのが一番でしょう。なお、井伊兵部少輔が伝えるでしょう」

○末尾に「井伊直政が伝える」とあるわけですが、同じ十一月十二日付で、井伊直政の「添え状」と見られる手紙も収録されています。

●手紙一三五号の二番「十月二十五日の御手紙、詳しく内府へ申し伝えました。ただちに直筆でもって申されました。その方面、皆様が御手段に出られ、勝利を得られて、感悦に思われております」「柳川のこと、人質を受け取られ、立花を引き連れて、加主計頭殿、鍋島加賀守殿と話し合われまして、薩摩方面へ御出発になったとのこと、申し伝えました。年内は寒天となりますので、まずはそこに御滞在になっているのが一番というもので、御手出しのことは、御延期なさるのがよろしいのでは」「万が一、島津が対抗してくる状況であれば、来春ただちに御成敗が命じられるでしょう」「島津が懇願してくる事情もありますので、そちらで御聞き取りになってください」「中納言殿への御見舞いを、岡田三四郎のところへ送られましたね。大久保相模守と相談し、申し伝えました」「筑前の内にある安国寺の領地のこと、了解しました。あの御国は甲斐守殿が御拝領です。御存じないまま報告してこられたのかと、内府も笑っておられました」「肥前の内の毛利壱岐守の分は、鍋加の衆に命じられて、納めてあるそうですが、確かにそうするのがよいでしょう」「太田飛騨の城を受け取るため、私の配下を派遣しますので、そちらでよきように御頼み致します。また改めて申し伝えるつもりです」

○一番には「たびたびの御報告」とあって、二番には「十月二十五日の御手紙」と書いてあります。九州から如水が状況の報告を送ってきて、返事の手紙を書いたものと見られます。柳川の立花宗茂は抵抗せずに降参し、人質を提出したことも記されています。それを如水が報せた手紙は「十月二十五日」に書かれているわけですから、その前日ぐらいには、柳川のことは終わっていることになるでしょう。そして如水は、次に鹿児島へ向けて、軍を発したようです。その際「立花を連れていった」というんですね。原文は一番が「立花召連」で、二番は「立花被召連」で同じ表記。「身柄を拘束して連れていった」のではなく「立花軍の参陣を許した」の意味に思えます。敵対していた立花は、降参したことで領地を失うことになりますが、すぐにも「島津討伐戦争」に参戦して、そこで手柄を立てれば、新たな領地が拝領できるかもしれないってこと。このように、領地を失った者が知人の軍に参加させてもらうことを「陣借り」と言います。往復書簡「一三一号」の清正は、「関東へ、御無事の取り扱いを、心の思う限りを届けたい」とか「私が生きてさえある限り、領地をなげうってでも取り持ちを致すつもり」とか、立花に向けて「私が徳川に話をつけて、あなたに処罰がないように努力する」と言っていたわけですが、こちらの一三五号では、まったく違ったかたちでの配慮です。「処分は当然でも、幸いに次のチャンスがすぐにある。われわれに陣借りすればいい」という考え方。その報告を受けた家康も、添え状を書いた井伊も、べつにそれを否定していません。しかも興味深いのは、井伊の添え状には翌十三日付の追記があって、わざわざ「この問題」に触れていることなのです。

●手紙一三五号の二番の追記「続けて申します。薩摩への手紙、御届けを御頼み致します。以上」「追伸。立花のこと、人質を御受け取りになって、ただちに先陣を命じられて、薩摩方面へ御出陣だとのこと、聞きまして理解しました。あの城を御受け取りになったこと、伝えてこられなかったので、不審に思っていたのです。この手紙を得ましたなら、詳しいようすを、早々に御報せください」

○如水と清正による「個人的な配慮があって」の現場の判断。こういった点からも、本物に思える手紙です。ほかにも「冬になって寒いから、年内は越境侵攻しないでいい」という記述。加えて二番では、「島津が対抗してくるようなら、来春に御成敗」としたうえで、「島津が懇願してくるだろうから、そちらで聞いておいてくれ」と書いています。つまり、遠征軍は送られたものの、まだ戦端を開く状況にないわけです。島津は事情の説明をするだろうし、言い訳もしてくるだろうし、それらを「前線で聞き取ってほしい」と言っています。要するに、現代なら電話があるのでホットラインで話せるけども、この時代はそうもいかないから、境界地域まで「軍を出す」必要があって出陣したのみで、実際に戦争になるかどうかは「これからの話し合い次第だ」ということです。結果的に討伐戦争は回避されたため、立花は手柄を立てるチャンスがなかったわけですけどね。

○なお、当時の大名の領地は、一ヵ所に固まって与えられているとは限らず、飛び地領を持つことも普通です。安国寺の領地は四国の伊予にあったと言われていますが、筑前にもあったようですね。豊前の小倉が領地である毛利吉成は、肥前にも領地があったようです。それらを確認し、管理下に置いたことを、如水が報告してきているわけですが、「筑前は、甲斐守長政が拝領することになっていますよ」と書く井伊の二番。「黒田家で管理しちゃってよかったのに。ご子息の拝領を、まだご存じなかったんだね、と言って家康公も笑っておられます」の内容は、かえって「嘘には思えない」感じで、本物っぽいと思いませんか?
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